8 土地に残された古代(1)
 律令制下の地方行政の単位として、郡の下に50戸で構成する里が置かれました。しかし、717年(霊亀3)から740年(天平12)ごろまでの間は、里が郷とよばれ、その郷の下に2、3の里が置かれるという郷里制が施行されました。さらに、郷(里)のなかには、相互扶助・検察の組織として、近隣の5戸からなる五戸(保)の制がありました。

 平城宮・京跡から出土した「若狭国遠敷郡青郷」関係の郷里制下の木簡から、その郷域の広がりが、かなり具体的にわかるようになりました。青郷を構成した2〜3の里とは、「青里」・「小野里」・「川辺里」で、五戸の名としては、「氷曳五戸」・「田結五戸」が存在したことが知られます。青郷は、現在の大飯郡高浜町に青という地名があることから、その近辺の関屋川流域一帯を中心とする地域であったと考えられます。 
越前国の条里呼称システム
  ▲越前国の条里呼称システム
  越前では、郡単位で東西・南北の基準線を設定して郡を4つに区分し、土地の所在地を示すさいに、冒頭
  に東北・東南・西北・西南の所在区分を明示して、何条何里何坊と呼んだ。これは、他国に例のない特異
  な様式で、越前条里制の大きな特徴の1つ。


鯖江市中野町付近の条里地割の空中写真  鯖江市中野町付近の
 条里地割の空中写真(1962年当時)
       建設省国土地理院提供

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