4 継体天皇の出現(2)
 このように継体天皇は、武烈死後の後継者不在というヤマト王権の危機の時に見い出され、即位したわけです。しかしその割には、大和に入るのに20年もかかっており、記紀は事実を語っているのかという疑問が残ります。すなわち、彼は本当に応神天皇の子孫であったのか、また大伴金村らによって擁立され平和裡に即位したのではなく、実力で皇位を奪ったのではないかなど、さまざまな論点が彼をめぐって出され、論争は尽きません。

 しかし彼が皇孫であるか否か、和・戦いずれかはともかく、記紀が共に語るように、手白髪皇女と結婚することにより、前代の天皇の血筋を継承するという形をとって、彼は即位したのです。

 一方、彼の勢力が強大であったことも事実でしょう。母振媛の故郷高向は、現在の丸岡町と考えられますが、その近くの六呂瀬山1号墳や、九頭竜川対岸の松岡の手繰ケ城山古墳・二本松山古墳など、いずれも石棺を持つ北陸最大級の広域首長墳の築造が、4世紀中ごろから6世紀中ごろまで続きます。さらに6世紀には、椀貸山1号墳などの前方後円墳からなる横山古墳群が、丸岡町から金津町にかけて築かれます。これらの墳墓は、継体母子の出身勢力のものでしょう。

 母は三尾氏の出身で、三尾氏は通説のように近江ではなく、越前の氏族であるともみられています。また『上宮記』という史書の伝える継体の系譜から、彼の父方は近江湖東の豪族息長氏と考えられていますし、さらに継体の妻を見ると、尾張や近江、大和の諸豪族出身者が多く、それら地方豪族や大和の諸勢力との連携が、継体を支えたのでしょう。なかでもとくに最初の妻と伝える目子媛の出身氏族である、尾張氏のものとみられる名古屋市の断夫山古墳は、6世紀初頭ごろのものとしては東日本最大の前方後円墳であり、きわめて注目されるところです。
継体天皇関連地図
▲継体天皇関連地図 門脇禎二氏指導            拡大図 69KB
今城塚古墳
▲今城塚古墳
継体天皇の墓である三嶋藍野陵は、大阪府茨木市の太田茶臼山古墳
に指定されているが、高槻市にある今城塚古墳こそ藍野陵とする説が
有力である。6世紀前半の前方後円墳。戦国時代に城としてかなり手が
加えられている。墳長190m。2重の周濠を有し、全長350m。埴輪が出
土している。                大阪府 高槻市教育委員会提供
 

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