5 若越の国造たち(1) | |
ヤマト王権による日本の統一が進んでいたころ、服属した各地の有力首長は、国造に任じられました。およそ5、6世紀のことです。それによって首長たちはその地位を保証されるかわりに、ヤマト王権に貢献物や部民を出すなどの奉仕の義務を負いました。「国造本紀」によれば、若狭・越前に置かれた国造として、若狭国造・高志国造・三国国造・角鹿国造の4つをあげることができます。 これらの国造のうち3つは成務天皇の時に置かれたと伝えられますが、それはそのまま事実ではありません。『日本書紀』成務天皇5年9月条に国造・県稲置が設置されたという記事があるので、それをもとにしたのでしょう。むしろ「国造本紀」にみえる同族関係が、国造氏族の性格を考えるときの手がかりになります。 さて若狭国造については、膳臣との同族関係が注目されます。若狭は律令制下でも贄を出す国であるように、天皇の食膳に新鮮な海産物を貢納する「御食国」でした。膳氏は食膳をもって天皇に奉仕する氏でしたから、膳氏が若狭に進出するなかで、地元の有力者がそれと同族関係をもつようになったのでしょう。上中町にある脇袋・天徳寺古墳群が、その墳墓だったとみられます。 |
![]() ▲4国造の勢力分布 ・ 主要な前方後円墳 ● おもな古墳の分布する地域 『古墳時代の研究』11の古墳分布より作成した。 拡大図 39KB |
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![]() ▲上中町三宅付近 古墳時代中期の大首長墳が近くにあるこのあたりが、若狭の 中枢地であった三家里の地である。三家は屯倉とも表記され、 若狭国造を支配するためのヤマト王権の拠点として重要な地 であったであろう。 |
![]() ▲三家(みやけ)の文字が記された木簡(左裏・右表) (裏)三家里三家首田末□(呂カ)× (表)己亥年若左国小丹× 藤原宮跡出土。己亥年は699年(文武3)。 三家首は三家人を従えて屯倉(みやけ)の 経営にあたったのであろう。 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館蔵 |