2 画期としての弥生時代(3)
 県内の墓の変化のようすをみてみましょう。弥生時代中期前半の敦賀市吉河(よしこ)遺跡では、穴を掘っただけの墓とは別の場所に、特定の人びとの墓がつくられるようになります。それは溝で囲んだ方形周溝墓という畿内から伝わった形式の墓です。弥生時代中期中ごろから後半の福井市太田山1・2号墓は、平地にある周溝墓と違い、丘陵上にあり、台状の墳丘を持っています。とくに2号墓は多量の朱や501個もの管玉を出土しており、特定の個人を非常に手厚く葬っています。葬られた人は集団内の階層のトップである首長であり、祭祀の主宰者でもあったのでしょう。

 弥生時代後期後半になると、周溝墓や台状墓のほかに、山陰から伝わった四隅突出型墳丘墓などのさまざまな首長墓がつくられています。これらの墓は、墳丘の大型化、埋葬儀礼の荘厳化が進み、玉類に加えて鉄剣などの武器を出土する例もあります。首長の権力が強化され、そのおよぶ範囲も大きくなっていったのでしょう。

 さらに、土器の研究からわかってきたこととして、弥生時代中期には、東海・近江・山陰・中部・畿内から土器が持ち込まれるなかで在地の土器が形成されていくのに対して、後期になると、各地から持ち込まれる土器がある一方で、逆に越前の土器 (月影式土器)が近江から大和にかけて運ばれるようになるという変化があげられます。これは、それらの地域とのなんらかの結びつきや、広範な人びとの移動が、時の流れとともに変化していったことを物語っています。
敦賀市吉河通跡の玉作り関係遺物
 敦賀市吉河通跡の
  玉作り関係遺物
 県内のほとんどの弥生時代
 中・後期の集落遺跡から、管
 玉などの玉作り関係遣物が
 出土する。
 弥生時代中期
 福井県
 埋蔵文化財調査センター蔵
松岡町室遺跡の濠
▲松岡町室遺跡の濠
弥生時代後期後半に掘られた深さ2.5m、幅5m、長さ90
m以上の濠が検出され、集落を防衛する環濠ではない
かとみられている。
                   松岡町教育委員会提供 
福井市太田山墳墓群
▲福井市太田山墳墓群
写真手前が1号墓。その後が2号墓。
弥生時代中期     福井県埋蔵文化財調査センター提供
敦賀市吉河遺跡の土壙墓群、住居跡(左)と方形周溝墓群(右)
▲敦賀市吉河遺跡の土壙墓群、住居跡(左)と方形周溝墓群(右)
弥生時代中期         福井県埋蔵文化財調査センター提供
福井市安保山古墳群
▲福井市安保山古墳群
写真中央やや上の前方後円墳が県内最古級の2号墳で墳長34m。
弥生時代後期末〜古墳時代前期
                  福井県埋蔵文化財調査センター提供 
清水町小羽山30号墓
▲清水町小羽山30号墓
県内で最初に確認された四隅突出型墳丘墓。
弥生時代後期 突出部を含めた長辺33m
                       清水町教育委員会提供  

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