2 画期としての弥生時代(1)
               遠賀川式土器
                      ▲遠賀川式土器
                      福岡県の遠賀川で発見されたことにちなむ遠賀川式土器は、青森県でも発見されて
                      おり、日本海沿いの伝播コースがあったことがわかっている。弥生時代前期
                      (左)(中)小浜市丸山河床遺跡 (左)高さ32p (中)高さ25.5p  小浜市教育委員会蔵
                      (右)大飯町宮留遺跡 高さ18p 複製                 福井県立博物館蔵


 これまでの研究から、縄文時代中期には、日本列島にコメがあったことがわかってきました。しかし、コメも鳥浜貝塚のゴボウなどと同じ栽培植物の一つであっただけで、縄文の社会に大きな変化をもたらすことはありませんでした。

 ところが、紀元前5〜4世紀に朝鮮半島からおおぜいの人びとが北九州にきて大陸の高度な技術で稲作農耕を始めると、日本の風土が稲作に適していることもあって多くの収穫 をあげ、人口も増えて豊かになっていきました。これをみた採集や狩猟中心の縄文の社会の人びとは、しだいに彼らの稲作技術をとりいれていきました。こうして、稲作を中心とした農耕が広まっていきました。縄文時代以前の社会のゆるやかな変化とくらべて、弥生時代以降の社会がめまぐるしく変わっていくことをみれば、稲作農耕のはじまりは日本の歴史上最大の画期の一つといえるでしょう。

 若狭では、弥生時代前期中ごろから後半の遠賀川式土器という初期稲作農耕にともなう土器が、小浜市丸山河床遺跡など数か所の遺跡で発見されています。遅くともこのころまでには若狭に稲作農耕が伝わっており、生活のなかに開墾、畦や用水路・堰の手入れ、田起こし、田植えや直播き、草取り、収穫、乾燥、脱穀などの労働とそれに関連する祭祀がとりいれられていきます。また、機織などの技術や鉄・青銅製品も伝わったことでしょう。

 越前でも、福井市糞置遺跡など1、2か所でこの時期の可能性のある土器が発見されていますから、稲作農耕が伝わったのは若狭と同じころだったのでしょう。
   福井市糞置遺跡の木製鋤先
   ▲福井市糞置遺跡の木製鋤先
   糞置遺跡からは木製農具が多数出
   土している。 弥生時代中期〜後期
   長さ33.5cm
    福井県埋蔵文化財調査センター蔵
      敦賀市吉河遺跡の出土品
      ▲敦賀市吉河遺跡の出土品
      太型蛤(はまぐり)刃石斧(右)は木の伐採に、扁平片刃石斧(中下)は木製
      農具などの細部加工に使用されたと考えられる。紡錘車(中上)は糸をつむ
      ぐためのもの。写真の石包丁(左)はかなり大型なので、稲穂をつみとる以外
      の用途もあっただろう。 弥生時代中期
                              福井県埋蔵文化財調査センター提供

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