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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
     五 港湾の改修
      地元負担金と倉庫会社
 敦賀港修築工事費が国の大正十一年(一九二二)度予算で認められた背景には、地元負担金拠出の内諾があった。しかし、財政基盤の弱い敦賀町は財源捻出に四苦八苦した。すなわち、庄司義基町長は一〇万円の起債を承認するのが限度で、残額四〇万円については、大和田荘七に支援を求める以外に方策がなかった。大和田はこの解決策として、一、敦賀において倉庫会社を創設し、この会社から四〇万円を町へ寄付する。二、福井県は修築工事完成時に内務省から不用埋立地四〇〇〇坪の無償払下げをうけ、この土地を寄付金四〇万円の代償として倉庫会社に譲渡するという案をつくり、白男川譲介知事に確約させた。このようにして十年十一月二十四日の町会でようやく地元負担金拠出が決議された(『大阪朝日新聞』大10・11・25)。
 大和田は、十一年度分の寄付金一〇万円を一時立て替えて納入したのち、十二年十一月には「敦賀築港倉庫株式会社」の株式二万株の募集を始めた。しかし、常識はずれの会社設立には多くの町民が疑念をいだき、応募をためらった。そこで大和田は敦賀郡下の村長に対する説明会を開いて村部へも呼びかけ、株主も六三四人となり、十三年三月二十五日に会社は創立された。社長は大和田で重役の大半は町の有力商人であった(『敦賀商業会議所月報』一二四)
 ところで、倉庫会社の株式募集にあたって、大和田が民法で年五パーセントと定められていることを知らずに、年七パーセントの配当をすると約束したことが問題となった。彼は定款を改正するとともに株主へは七パーセントの配当を続け、敦賀町にその差額二パーセントを補助するよう請願した。しかし、町政刷新を求める一部町会議員と町民は、十四年一月二十四日に町政革新町民大会を開いて補助申請の撤回を求める決議をして気勢をあげるなど、反対する者が多く、請願を撤回しなければならなかった(『大阪朝日新聞』大14・1・25)。結局、彼自身がその配当差額分全額(年間約九〇〇〇円)を会社に寄付するかたちでこれを負担した(『敦賀商業会議所月報』一三八)。
 地元負担金をめぐって複雑な問題をかかえた敦賀港拡張について、十年十一月十六日の『大阪朝日新聞』は、代議士永井柳太郎の談話としてつぎのように報じている。港湾修築が如何にも或るものゝ力で出来上つた様に吹聴して居るのは不合理である。若し夫れ政友会が党勢拡張のため福井県に何等かの交換条件を付し築港を許可したと云ふ事が事実なりとせば、実に言語道断で、若し政党が敦賀港を私せんとするに於ては鼓を鳴し、其非を責め、議場に於て一物議を醸すに至るであろう。又一富豪の組織する営利会社に築港埋立地を提供すると云ふことは、後日に弊害を胎すもので、何故町は町営としないか。築港を挙げて県に移管したとすれば、何故県営で埋立地を利用しないのか。一富豪が公の築港を左右し私する事は断じて許すことは出来ない。
 このようにして、公益を守る立場から、埋立地の私有地化に対する批判と、政党の利益誘導政策ととらえる批判とが、年とともに相乗的に広がっていった。第二期修築工事の埋立てが終わったとき、敦賀築港倉庫株式会社に約束されていた土地の無償払下げはなく、敦賀町会はこの土地を町営上屋の用地として買収することを決議した(『福井新聞』昭6・2・7)。会社創立当初に四〇万円と評価した埋立地は、一三万余円で町に買収され、昭和六年(一九三一)四月十九日に会社は多額の損失をかかえて解散した(『大阪朝日新聞』昭6・4・21)。



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