大正十四年(一九二五)春に行われた敦賀町会議員改選は、町政のあり方を争点に、大和田荘七への個人攻撃や排斥運動も連動する激しい選挙戦となった。最大の争点は、敦賀商業会議所の第一期港湾修築工事運動以来の一連の行動が町政への介入とみなされ、商業会議所本来のあり方が問われたことである。それに、前年の防波堤の完成による潮流の変化にともなって「うねり」が発生したことがからみ、内港水面積も狭小で入港船舶から悪評を買っている現状から、町当局は早急に主務省へ港の改良を請願すべきだという意見が出され修築計画の見直しも争点となった。修築工事変更についての対立点を若干立ち入ってみると、大和田は、政友会内閣が採用した当初の修築計画を支持し、現在の港が狭隘ならば将来常宮湾に大敦賀港を築けば解決できると、第一期工事運動以来の持論を主張した。反大和田派は、笙ノ川右岸に築く突堤を廃して港湾を拡張し、同川左岸に砂防堤を築くことで「うねり」を解消できると、現状での改良を主張した(『敦賀市史』下)。
五月一日に開票した結果、反大和田派が主流を占める憲政会系は、一七人(定員三〇人)が当選し大躍進をとげた。これに反し政友会系は本部の分裂騒ぎの影響も手伝って大きく後退した(『福井新聞』大14・5・2)。大和田は同年九月一日に敦賀商業会議所会頭を、翌日には福井県対岸実業協会敦賀支部長を辞任し、かわって会頭に那須吉兵衛が、支部長には町長後藤貞雄が就任した(『敦賀商業会議所月報』一四一)。この町を二分した対立は、大和田のいっさいの公職からの引退にもかかわらず、その後も町会派とか会議所派とか称され、しこりは容易にとけなかったといわれる。 |