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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
     五 港湾の改修
      敦賀港の第二期修築工事
 第一次世界大戦および戦後の対岸貿易の進展は、敦賀港の入港船舶数の増加をもたらし、港の狭小と施設の貧弱さを露呈する結果となった。敦賀商業会議所会頭大和田荘七は、朝鮮牛移入の体験から港湾拡張が急務であるとして、いち早く大正六年(一九一七)から寺内内閣に敦賀港拡張を陳情するなど、運動を始めていた。八年十月には、湯地幸平知事を会長に、日露協会の後藤新平らを顧問に、大和田を敦賀支部長にする「福井県対岸実業協会」の設立を計画し、九年六月に創立して、官民一体で敦賀港の拡張を要望する猛運動が内務省や国会にくり広げられた。対岸貿易の拠点である敦賀港の整備は、当時すすめられていたわが国の大陸進出政策とも合致していた。九月に内務省港湾調査会は敦賀港を五大港につぐ主要港に位置づけ、七〇〇〇トン級の船舶が係留できるような港に改修するため、総工費三五〇万円、五か年継続とした事業計画を立てた。内務省は大正十年度の港湾修築予算として、敦賀だけでなく、下関・横浜・清水・那覇の五港分を一括して要求した。しかし、敦賀港修築予算だけは地元負担金の拠出がないため、予算閣議で除外された。翌十年七月の帝国議会で、河崎清・野村勘左衛門・高島七郎右衛門・山本条太郎・柳原九兵衛の県選出代議士らは、県対岸実業協会の陳情をうけ、「敦賀港拡張建議案」を提案し可決された(『敦賀商業会議所月報』七九、前掲『日本港湾修築史』、『敦賀市史』下、資11 二―一三一)。
 県対岸実業協会の役員らはその後も陳情を続けたが、全額国庫支出金による修築の要望では前進しなかった。結局、白男川譲介知事が内務・大蔵両大臣に地元負担金五〇万円を県(実質は敦賀町)が拠出する、県が大正十四、十五両年度に工費一一〇万円を一時立て替える、などを内諾し、十年十一月二十六日の予算閣議でようやく敦賀港修築予算が認められた。こうして敦賀港の第二期修築工事は大正十一年度から十八年(昭和四年)度にかけての八か年継続、予算総額三四〇万円で着手されることに決まった(表229)。工事内容は、水深二八尺の九〇間岸壁が二つ、水深二四尺の六〇間岸壁と一五〇間岸壁および水深一八尺の一二〇間岸壁がそれぞれ一つずつ造成され、七〇〇〇トン級一隻、六〇〇〇トン級二隻、三〇〇〇トン級三隻の船舶の同時接岸が可能となる計画であった(『大阪朝日新聞』大10・11・25、『日本港湾修築史』、大正一一年『敦賀商業会議所年報』)。
 十一年六月に内務省大阪土木出張所は測量調査を始め、九月十四日には水野練太郎内務大臣・床次竹二郎元内務大臣・白男川知事らが出席して蓬莱海岸で第二期修築工事の起工式が行われた。翌十二年六月に名古屋土木出張所に移管され、準備工事から着手された。すなわち、沓・手の両地籍に石材積出し埠頭が、桜・蓬莱の両地籍に方塊積出し埠頭が、松原地籍には砂積出し仮棧橋が、さらに沓地籍にはケーソン製造の作業所がそれぞれ設けられた。こうして、十三年から防波堤の延長工事を皮切りに本格工事が始められた(『敦賀市史』下)。
表229 敦賀港第2期修築工事予算額

表229 敦賀港第2期修築工事予算額



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