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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
     五 港湾の改修
      敦賀港の第一期修築工事
 明治三十二年(一八九九)七月に敦賀港が開港場の指定をうけて以来、地元では港湾改修の 要望が高まっていた。ことにウラジオストク港との間に直通定期航路が開かれた三十九年以降 は請願運動が精力的に続けられた。施設の不備が貿易拡大の支障になっていることが認識され たからである。四十一年二月の敦賀町会では、「商港調査委員条例」が制定され、町会議員・有 力者から一二人が委員に選出された。従来の一時的な商港設備調査委員とは異なる常設の委 員で、商港の慣習・制度・計画・設備などについて、町長に意見を具申した。また、委員会は大型 船舶が出入り可能な築港修築計画の推進を決め、地元選出県会議員を通じて県会に意見書を 提出するなど、修築工事着工促進を要望した(『敦賀市史』下)。
 ところで、敦賀湾の奥深くに位 置する敦賀港は「天然の良港」といわれたが、当時、施設としては、十五年に完成した石造りの 金ケ崎突堤(長さ一八二メートル、幅八メートル)ぐらいしかなかった。そのため汽船が入港しても 接岸できる棧橋はなく、貨客は艀船で海岸と連絡していた。福井県の委嘱で商港調査委員会が 四十一年に実施した過去一〇年間の敦賀港の実態調査によると、埠頭荷揚場の狭隘や風浪激 甚による船舶停泊日数の増加などで毎年二五万五〇〇〇余円の損害をうけている(明治四一 年『敦賀商業会議所年報』)。
図64 敦賀湾改良工事計画図

図64 敦賀湾改良工事計画図

 政府は、欧亜貿易の拠点として重要な地位を占める敦賀港が貧 弱な施設に苦しんでいる現状を重視し、港湾政策のなかで国営港に選定した。こうして四十一年 の帝国議会で敦賀港の修築が議決され、総工費八〇万円、四十二年度から四か年継続の国営 事業として、同年七月に着工された。大正二年(一九一三)三月には工事の大半が完成したが、 引き続いて埋立護岸および浚渫などの追加工事が行われ、翌年三月には全工事が完了した (内務省『敦賀港改良工事誌』)。
 この工事計画について『敦賀港改良工事誌』はつぎのように 述べている。
  本港ノ改良ハ要スルニ金ケ崎突堤ヲ延長スルニアリ、而シテ今回ノ計画ハ当面ノ急ニ応スルヲ 以テ限度トシ、将来其発展ニ随ヒ
  大規模ノ計画ヲ遂行スルニ敢テ妨ケアラサルノ趣旨ヲ以テ之ヲ 施工ス
 つまり、この計画は当面の急に応ずるためのもので、いちおう三〇〇〇トン級汽船の自由な出入 り停泊を基準にしていた。改良工事のあらましは、既設防波堤をさらに一〇一間延長し、金ケ崎 前面の海面延長約一四〇間、幅一七間を埋め立てて、その前面に幅三間、延長一〇一間の棧 橋を築造して三〇〇〇トン級汽船二隻が接岸できるようにし、また、港内を水深二四尺に浚渫し たことである。突堤の基礎捨石には、当初海岸の拾石を舟持人夫が重量一〇〇貫目以上のも のを船で運んだ。しかし、拾石はわずかしか採取できず、大部分は松原村色浜から重量二〇〇 貫目の花崗岩の割石を、石運船に積み、突堤位置に運んで投入した。また、海底の泥砂は細粒 で粘着力が強いため、浚渫作業は困難の連続であったという。付随工事として、児屋ノ川以東に 上屋(倉庫)や荷揚場も修築した。この工事の完成により、敦賀・ウラジオストク連絡船が、風波 のために出航を延期するようなことはほとんど起こらなくなり、敦賀港は繁栄期を迎えた。 



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