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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
     五 港湾の改修
      港湾政策と県内主要港
 日露戦争後、わが国資本主義は確立期を迎え、政府は貿易・産業拡大の基盤となる港湾行政の基本方針を打ち出した。内務省に設けられた「港湾調査会」は、全国的な港湾調査の資料をもとに明治四十年(一九〇七)十月に「重要港湾の選定及施設の方針に関する件」を議決し政府に答申したのである。それによると、全国の一四港湾を重要港湾として挙げているが、ことに横浜・神戸・大阪・関門(下関・門司)・長崎の各外国貿易港および首都の東京湾と敦賀港の七港を重視し、国費による施設の修築改良の必要性を述べている。敦賀港については、「目下浦塩港との連絡上応急の設備として臨機国費を以て港内の一部の浚渫等をなすの必要を認め、之れが設計をなし本回の調査会に提出せり。而して将来の施設に関しては、関係公共団体に相当の共助をなさしめこれが完成を期せんとす。」と、施設修築の方針を述べている。また、青森・新潟・境など七港湾は地方貨物集散の要衝で、整備を要する港であると述べている。
 政府は港湾調査会の議決をもとに、わが国の港湾を重要度に応じて三種に区分し、第一種重要港湾(横浜・神戸・関門・敦賀の四港)、第二種重要港湾(東京・大阪・長崎など一〇港湾)を選定し、それ以外の地方港湾を第三種港湾とした。第一種重要港湾は国が主体となって工事を施工し、第二種重要港湾は地方に経営が任され、国が一部補助するが、第三種港湾は地方の独力経営に任せ、国は補助しないこととした。日露戦後経営の政策課題の柱の一つに海外貿易拡大を掲げた政府は、港湾行政でもその方針を貫き、少数の外国貿易港のみに重点をおいて国で修築管理する「大港集中主義」を採用したのである(運輸省港湾局『日本港湾修築史』)。
 敦賀港はこうした国の港湾政策のもと、わが国を代表する横浜・神戸港とともに国営四港に選ばれ、日本海側唯一の第一種重要港湾に指定されたのである。それは、ロシア・ウラジオストク港との間に直通定期航路が開かれ、対露貿易の拠点であったこと、また、この定期航路はシベリア鉄道との連絡により、欧亜航路に比べ、最短路で欧州各国と結ばれていたこと、さらに敦賀商業会議所会頭大和田荘七をはじめ官民の努力によって、その外国貿易も発展の傾向を示していたことが認められたからにほかならない(『敦賀商業会議所月報』一三八)。
 上述してきた基本方針は、近代的な港湾修築とその費用負担を定めた画期的な政策であった。その後、貿易の進展と海運の発達にともない、各地の港湾修築に対する要望が強くなり、重要港湾の数は増加していったが、港湾政策の基本に変わりはなかった。県内の主要港もこの政策によって、敦賀港は国費による数次の大改修が行われ、ほかの諸港は地方港湾として修築工事がすすめられることになる。
 ここで明治初期からの県内主要港の修築の歩みにふれておこう。坂井(三国)・敦賀・小浜の三港は江戸時代から西廻海運の要港として栄えてきた。明治期に入っても十六年まで三国港は敦賀港を上回る貨物取扱量を示していた(『県統計書』)。明治初期の港湾修築は六年の「河港道路修築規則」(大蔵省達番外)によってすすめられていた。この規則によると、港湾を三種に区分し、一・二等港の工費は六分は官が出し、四分は地方民が負担する。三等港の工費は地方民が負担することになっている。三国・敦賀・小浜の三港はいずれも二等港、それ以外は三等港であった。三国港はわが国で最初に築港工事が行われたことで有名である。オランダ人技師のエッセルとデレーゲが参画し、十一年五月に着工し、十八年にほぼ完成している。
 十五年五月の土木費支出規則条項の追加にもとづき、二十二年三月に三国・敦賀・小浜三港は地方費支弁(工事費の九分を補助)となり、三十五年三月には、三方郡の早瀬・日向の二港も加え、五港がともに県費支弁の港湾となった。第一種重要港湾の敦賀港のその後の大改修をよそに、四港は地方港湾として改良がすすめられ、三国港が国庫補助をうけて修築されるのは昭和十三年(一九三八)である(『県史』三 県治時代、前掲『日本港湾修築史』)。



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