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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
    四 道路行政の展開
      「道路法」の制定
 大正八年(一九一九)四月、積極的な産業・交通政策を推進した原敬政友会内閣によって「道路法」が制定され、翌年四月施行された。大戦下の好景気による輸送力増強に道路の役割が再認識されたことや、自動車の利用増加が、同法制定の契機であった。しかし、福井県では、逆に同法の制定が自動車の利用を促すことになり、大正七年現在の乗用自動車五台が、三年後の十一年には、乗用自動車五七台、貨物自動車一二台となった。自転車にいたっては、七年の八五六九台が、十一年には二万三六五九台と激増している(資17 第493表)。
 「道路法」では、道路は国道・府県道・郡道(十二年廃止)・市道・町村道の五種に分けられ、それぞれ内務大臣・府県知事・郡長・市長・町村長が認定した。府県道には、隣接の府県庁所在地を結ぶ路線、府県内枢要の地・港、鉄道停車場を結ぶ路線、さらに将来地方開発のために必要な路線などがあげられており、国道以外の主要な道路はほとんど網羅されている。
 九年四月、内務省は、国道に三八路線を認定した。福井県下では、一二号と三五号の二路線である。一二号は敦賀郡愛発村刀根から敦賀町、武生町、鯖江町、福井市、丸岡町を経て坂井郡坪江村牛の谷から石川県大聖寺町にいたる道路で、三五号線は敦賀町から小浜町、高浜町を経て大飯郡青郷村吉坂峠から舞鶴町にいたる道路である(内務省告示第二八号)。この新規認定で、それまで国道であった南条郡栃の木峠・常久間は県道となった。福井市内でも、氷川町四ツ辻より幸橋を通って佐佳枝上町四ツ辻にいたる路線が国道になり、それまでの氷川町・藤島神社間、九十九橋・福井市道路元標間は、それぞれ市道および県道となった。
 福井県では、八年十二月に、道路法にもとづいて五六路線を県道とする諮問案が県会に提案され、ついで翌年四月に、県道六〇路線が告示された(告示第一〇六号)。このうち、鉄道停車場名の路線には、鉄道停車場に達する道として二二路線、鉄道停車場を経由する道として五路線、計二七路線が認定されている。県道のうち四五パーセントが、直接鉄道停車場に関係する道路であり、当時の交通・輸送手段としての鉄道の役割の大きさを物語っている。
 十二年四月からの郡制廃止にともない、多くの郡道が県道に昇格した。福井県では、規準に近い市町村道も県道に編入する方針が採用され、十一年の通常県会で認定された。十二年四月の県告示で、一一五路線が追加、二路線が四路線に変更、また二路線が廃止となったので、県道は一一五路線が増加し一七五路線となった(告示第一二四号)。
 大正七年には「自転車取締規則」(県令第五二号)、八年には「自動車取締令施行規則」(県令第一〇号)、十年には「道路取締令施行規則」(県令第二三号)が出された。福井県下の交通事情を示す諸車の保有台数は、大正中期で荷車二万七〇〇〇台で昭和初期までほぼ横ばい、荷積用馬車は十四年の一二四二台をピークに急減し、かわって大正期に入って普及してきた自転車がこの時期には三万台を超え、自動車は昭和元年に二〇一台で、その四分の三は乗用車であった(資17 第493表)。大正末年の福井県下の物資輸送の状況は、最寄りの鉄道までの荷車・荷物用馬車が中心であった。



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