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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
    四 道路行政の展開
      大正期の橋梁
 福井県が誕生した明治十四年(一八八一)の橋梁数は一万二〇四架であったが、市町村制が施行された二十二年には一万八一六八架に増加した。そのうち県費支弁の対象が七六四架、県費補助・町村費連帯が二〇八〇架、町村費が一万一〇〇九架、私費が四三一五架であった(『県統計書』)。「土木費支出規則」の改正による県費支弁道路の増加によって県費支弁の橋梁もふえ、二十四年には二四〇九、二十八年には八二八二架となった。三十五年の改正で、国道、仮定県道、さらに両道から鉄道停車場・著名な神社仏閣への里道の橋梁は県費支弁となった。同年の国道・仮定県道の橋梁は、それぞれ四七一架・二〇一九架で、橋梁総数は一万六八〇五架が数えられる。
 大正元年の国道・仮定県道の橋梁数は、五九九架・一一〇三架で、総橋梁数は一万三九八五架であった。同年のとくに知事が指定した県費支弁の橋梁は、一九架で、板垣橋、朝宮橋、清水山橋、吉川橋、有定橋、帆山橋、燧橋、古木橋、御陵橋、新保橋、五箇橋、東五箇橋、港橋、野尻橋、松島橋、大手橋、西津橋、太良庄橋、岡田橋となっている。
 道路法が施行された大正九年の橋梁数は、国道二三八架、県道八九三架、市道一五四五架、町村道九二四四架、総橋梁数は一万二〇二〇架であった。そのうち、鉄筋橋三六架、木鉄橋一〇架、石橋九八九架、木橋七一五〇架、土橋三八〇九架、つり橋二五架、舟橋一架となっている(『県統計書』)。
 表228は、大正六年『福井県統計書』の「著名橋梁」から、長さ五〇間以上の橋梁をあげたもので、当時の重要な橋梁のすべてを網羅するものではないが、その概要がうかがえる。明治二十九年の芦原橋以外はすべて三十年代以降に架設されたものである。九頭竜川の改修が開始された明治三十三年には、「著大ノ橋梁」として長さ五〇間以上の橋梁は一四架があげられており、これと比較すると五〇間以上の橋梁数は倍増した。また、舟橋が一〇二間から一六四間に、新保橋が一〇六間から三〇一間になるなど、河川改修事業などで川幅が広げられ全体的に長大となっている。

表228 主要橋梁(大正6年)

表228 主要橋梁(大正6年)
 大正時代に新たに架設された橋梁のなかで、九頭竜川の勝山橋と布施田橋は、長さ・経費の両面で他に抜きんでている。
 勝山町と遅羽村比島の「鵜の嶋の渡し」への架橋計画は、明治四十年代の電気鉄道の敷設構想にともなって起こった。越前電気鉄道は、九頭竜川の左岸を福井から大野に向かって敷設される計画であったので、鉄道敷設の効果を高めるには、右岸の勝山町と鉄道を結ぶ橋梁が不可欠であった。勝山橋は、四十四年の県会で、翌年からの架設が決定された。全長一八二間、そのうち比島側の五〇間には、福井県最初の鋼鉄製つり橋を架設するという計画で、総工費として六万円が計上された。工期は、最終的には四か年となり、大正四年八月完工した。
 九頭竜川の下流に架けられた舟橋(明治八年架橋、四十一年再架)、中角橋(明治八年架橋、三十九年架替)、新保橋(明治三十七年架橋)はともに一〇〇間を超える長大な木造の橋梁であった。しかし、中角橋と新保橋の約五里の間には橋梁がなく、この間の対岸への輸送は、大正時代になってもなお渡船によっていた。大正三年の県会で、鶉村布施田と大石村布施田新の「布施田の渡し」に橋を架設する意見書が採択され、翌四年の県会では、五年度予算として布施田架橋費四万二一二円が可決された(大正四年『通常県会議事録』)。このころ、丸岡軽便鉄道の川西方面への線路延長計画も起こっており、川西部の開発と東西両部の交通の発達にとって時機を得た架橋計画であった。六年春に着工したが、第一次世界大戦下の好景気で物価と労賃が暴騰し、工費の追加を余儀なくされた。総工事費五万七二四五円を要して、七年十一月竣工、長さは三〇六間で、福井県内最長の橋梁となった。



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