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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
    三 小浜線の敷設
      小浜鉄道株式会社の誕生
 若狭地方への鉄道敷設計画は、明治四年(一八七一)一月の「越前敦賀若州小浜等ヨリ往々京師ヘ鉄道ヲ開」く、という京都府から政府への伺書にみられるが、この計画は、長浜・敦賀間の鉄道敷設となった(資10 二―一六九)。その後、若狭地方にこの計画が再然するのは二十六年の初秋である。その背景には、「鉄道敷設法」による敦賀・富山間の着工や第二次鉄道ブームなどがあるが、直接的契機としては、敦賀への鉄道敷設による小浜港の地位低下と、京都鉄道による京都・舞鶴間の出願があげられる(『日本鉄道史』中)。小浜と京都をつなぐ「鯖街道」は、往古より日本海側と都を結ぶ要路であっただけに、若狭地方の人びとの危機感は大きかった。また、二十八年一月の帝国議会で、若狭地方選出の衆議院議員小畑岩次郎が北陸線の改正案を提案、同年三月には、「鉄道敷設法」の第一期線として北陸線中に舞鶴から小浜を経て敦賀にいたる路線が追加されたことも、若狭と京都を結ぶ私設鉄道敷設の運動に大きな刺激をあたえた(芝田俊哉「小浜鉄道物語」『小浜市史近現代史料研究』一)。
 二十六年八月、小浜町長組屋六郎左衛門、大北安之助、吉岡喜兵衛ら小浜町有志が、小浜・京都間の鉄道敷設を計画した(吉村篤家文書)。翌年四月には、滋賀県知事や同県有志とも協議、社名を江若鉄道株式会社とし、路線は小浜・大津間となった。五月十七日、遠敷郡役所で最初の会議が開催され、各村長に鉄道敷設の主意が伝えられた。その後、社名を近若鉄道株式会社と改称、日清戦争の勃発で中断したが、年末には再び活発化した。
 二十八年一月には、小浜町の雲浜会堂で鉄道創立発起人第一回総会が開かれ、小浜町の商人を中心に五三人の発起人が出席し、一五人の委員と会計三人が選出された。ついで、大北、山口嘉七、武田英蔵、志水源兵衛の四人が常務委員に選ばれた(吉村篤家文書)。
 日清戦争が終わると、全国的に地方鉄道の新規事業が続々勃興した。近若鉄道では、二十八年三月に第一期線に決定したばかりの敦賀・舞鶴間も、大津・小浜間と同じく私設鉄道として敷設することになった。十月三十一日、近若鉄道を改称した小浜鉄道株式会社が、小浜町より滋賀県今津町にいたる約一九マイル二〇チェーンに、ついで十一月五日には、若狭鉄道株式会社が、熊川村より敦賀町にいたる約二三マイルに鉄道を敷設する出願書を逓信大臣に提出した。小浜鉄道では、十一月十六日に、今津町より堅田を経て大津にいたる三一マイルと小浜町より高浜を経て京都府余部(舞鶴市)にいたる二二マイルの延長を出願した。ついで十二月二日には、両鉄道合併の願書が提出された。新会社の小浜鉄道株式会社は、資本金を三九五万円とし、敦賀への分岐点は熊川村から井ノ口村へと変更された。創立事務所の本部は東京市京橋区三十間堀一丁目五番地に、支部は小浜町と大津町に設置されていた。小浜支部は組屋の自宅に置かれていたが、二十九年四月小浜町字白鬚五五番地の新設の事務所に、さらに翌年八月には、同町字今宮五六番地に移された。
 「新」小浜鉄道の路線は、小浜町から遠敷・日笠・三宅・熊川・滋賀県今津・勝野・小松・堅田を経て大津にいたる路線、小浜町から本郷・高浜の両村を経て京都府余部村にいたる路線、井ノ口から分岐して三方郡三方・気山・佐柿を経て敦賀町に達する路線で、若狭地方を縦横断して既設の敦賀・大津と軍港舞鶴をT字形に結ぶ延長約九五マイル二〇チェーンの鉄道計画であった。年間収入総額は約五〇万一七〇〇円と見込んでおり、収入の四割が貨物であった。『起業目論見書』には「山陰、北陸及北海道等ノ海産物ハ勿論若狭地方ノ特産タル絹布、紙油、木材、漆器、石材、雑穀、肥料等ノ如キ貨物ノ京阪、近江各地ニ輸出スルモノ及ヒ京阪地方ヨリ砂糖、石油、綿布、雑穀ノ如キ日常品ノ輸入甚多シ」と記されている(吉村篤家文書)。



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