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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
    二 地方鉄道の敷設
      福井市街環状電気鉄道の敷設計画
 福井市街の道路上に環状線を敷設する計画は、加越電鉄の市街線にみられる。大正十年(一九二一)七月、元福井県理事官の佐々木武助ら三六人を発起人として、福井電気軌道株式会社が出願した。加越電鉄の市街線を本線とし、赤坂線(大名町四ツ辻・赤坂間)、浪花線(大名町四ツ辻・浪花下町間)、勝見線(福井駅前四ツ辻・勝見出村間)、牧島線(筋違橋・米沢口間)の四支線を敷設する計画であった。加越の出願者が、佐々木の政治力に期待したものと推測される(前掲、小谷正典『福井県史研究』二)。
 十五年五月、市郊外の村も含めた大規模な環状電気鉄道構想が生まれた。十四年に福武電鉄が開通し、同電鉄が、木田村の福井紡績株式会社への引込み線の敷設を機会に、足羽山にトンネルを開削し笏谷方面に出て市西方東安居村から西藤島村牧島にいたり吉崎電鉄に接続するという計画である(『大阪朝日新聞』大14・10・2)。
 当時、福井市では北陸線福井駅のある東部に経済活動の中心が移りつつあった。危機感のあった照手・湊・錦・大和・花月・乾・春山・浪花町などの西側では、この計画を積極的に支援することになった。七月に、政治経済の中心である佐久良・佐佳枝両町の中筋と西側が中心となり、福井商業会議所を動かし福井市環状電鉄速成同盟会が結成された(『福井新聞』大15・7・3)。事務所は、福井商業会議所に置かれ、委員長には駒屋節二、会計には坪川信一が就任した。ここで構想された路線は、さきの計画に加えて、吉崎電鉄の福井高等工業学校前(西福井駅)から越前電鉄の福井口への路線延長計画を促進させ、さらに北陸線の東方を迂回し、福武電鉄の福井新にいたるというものである。木田・社・東安居・西藤島・円山西・円山東・和田の各村にまたがる「大福井建設」構想の一環として、市郊外電気鉄道計画が登場したのである。しかし、武内徹市長から永井環市長にかわり、市の方針が幸橋の架替と国道の拡張に重点を置くようになると、行きづまった。西側では、「地方繁栄会」を設立し、十二月十三日に、駒屋・坪川ら一〇人の発起人が、資本金一〇〇万円で福井電気鉄道株式会社を創設し、福井市郊外環状電気鉄道の敷設を出願した。昭和二年三月、併行線となる吉崎電鉄の認可や、金融恐慌の発生、鉄道や国県道との交差箇所が多いなどの技術的問題点、さらに西側の繁栄という地域主義を脱却できなかったことなどから、環状線敷設の環境は失われ、十一月には申請が却下された(運輸省移管公文書)。
 環状線の構想は、昭和四年、福武電鉄による福井駅前から北陸線に沿い北進し三国芦原電鉄に接続させる計画、六年、三谷弥平ら九人の福武電鉄花堂・木田村山奥・社村小山谷・東安居村堺・三国芦原電鉄西福井駅にいたる福井電鉄株式会社の計画などに受け継がれたが、いずれも実現されなかった(『福井新聞』昭3・12・5、運輸省移管公文書)。その後は、福井市および周辺各村隣接区を含んだ都市計画区域における自動車道路整備計画のなかに受け継がれていく。



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