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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
    二 地方鉄道の敷設
      三国芦原電気鉄道の敷設
 福井市から三国町を経て大聖寺町にいたる鉄道の敷設は、三国町民の悲願であった。大正八年(一九一九)、この路線に加越電気鉄道株式会社を設立する計画が起こった。本社を三国町に置き、資本金は三〇〇万円で、三国町を起点とする福井線と大聖寺線の二線と、福井市街(起点は春山上町・中町の境に設置される福井口駅)の国道などへ環状に軌道を敷設する東廻線と西廻線が計画され、前者は八月に、後者が六月に出願された。
 発起人一六三人のうちわけは、坂井郡が九一人(うち三国町は一七人)、福井市三〇人、吉田郡一〇人、石川県江沼郡三七人、東京市二人である。創立委員長の名村忠治と会計委員横山吉十郎はともに三国町であり、三国町の資産家と福井市などの絹織物業関係の経営者が中心である。敷設の目的は、福井線は、大戦下の絹織物業の大発展を三国町の再活性化につなぐことであり、大聖寺線は、吉崎御坊と加越の名勝地・温泉地に参詣・観光・保養などの客を招致することで、産業鉄道的面と遊覧鉄道的面、さらに市街地鉄道的面を合わせもった計画であった(平野三郎家文書)。加越電気鉄道は、八年十二月二十六日に許可を受けたが(『大阪朝日新聞』大9・1・7)、九年三月に始まる戦後不況が絹織物業を直撃し、計画は資金力と意欲を失い自然消滅した。
 加越電鉄の計画は、創立常務委員の西島佐吉により吉崎電気鉄道株式会社に受け継がれた。路線は、三国町を中心に福井市と大聖寺町にいたる計画で、第一期線は坂井郡三国町から加戸・芦原・本荘・大関・兵庫・大石村布施田新・春江・吉田郡河合・西藤島・円山西の各村を経て越前電鉄の福井口に、第二期線は芦原村より分岐して吉崎村・大聖寺町を経て三木村にいたるもので、保養地の芦原温泉を福井市と大聖寺町への分岐点としている。芦原温泉から三国の海水浴場、東尋坊・雄島の景勝地へ、一方は吉崎御坊、加賀の温泉地帯へと、都市郊外・遊覧電車の性格がいっそう濃くなった。第一期の資金として二〇〇万円をあてており、十三年十一月二十二日に許可された。越前電鉄との接続から終点位置をめぐり混乱があったが、福井高等工業学校が開設された西藤島村牧ノ島付近を経由して志比口に敷設されることになった(『大阪朝日新聞』大13・12・5、14・7・11、9・30)。
 当初は三国町有志による計画であったが、十五年の初めには京都電灯に経営が移った。芦原・福井間は芦原街道に沿いほぼ直線で敷設されることになり、牧ノ島から西別院裏を経て越前電鉄に接続することになった。昭和二年三月十四日に、三国・福井間の工事施行が認められ、九月に起点が三国から雄島に延長され、秋には工事に着手した。十二月には社名を三国芦原電気鉄道株式会社と改称し、五年の永平寺大遠忌までには全線竣工の予定で進められた(『大阪朝日新聞』大15・1・30、昭和2・9・15、12・9)。
 三年十二月三十日、福井口(志比口)・芦原間が開業した。一日一七往復、福井高等工業学校前は福井の西玄関として西福井となり、西福井・芦原間は所要時間二三分・運賃三八銭で結ばれた。四年一月三十一日には、芦原・三国間が開通(『大阪朝日新聞』昭4・1・31)、七年五月には雄島村米ケ脇の東尋坊口までの全線が開通した。四年九月からの、十月一日からは三国芦原電鉄の福井駅乗入れが実現した(『大阪朝日新聞』昭3・12・28、4・2・3)。
 その後三国芦原電鉄では、西長田駅より西進して九頭竜川を横断し鷹巣村に達する川西線、芦原から北陸線金津駅にいたる路線などを計画している(『大阪朝日新聞』昭4・8・21、5・8・17)。
 第二期線の芦原村・大聖寺町間のうち芦原村・吉崎村間では、大正十五年に、吉崎鉄道株式会社が設立され、昭和三年七月に工事施行が許可されたが敷設にはいたらなかった(『大阪朝日新聞』昭3・7・28)。



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