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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
    二 地方鉄道の敷設
      武岡軽便鉄道の敷設
 三郡の計画のうちで、大正初年の「第三次鉄道ブーム」期に敷設が実現したのは武岡軽便鉄道のみである。武生町から粟田部村を経て岡本村にいたる路線には、北日野線と国高線の二案があったが、明治四十四年(一九一一)三月初めには国高線に決定した(『福井北日本新聞』明44・3・7、8)。同月中旬には、武生町の有志と全町会議員で武岡軽便鉄道既成同盟会を結成、官民あげて鉄道を敷設する体制が確立し、四月十七日には、三田村甚三郎ら十余人の発起人から、資本金一〇万円で武岡軽便鉄道株式会社(最初は武岡軌道株式会社と称し、八月に武岡軽便鉄道に変更)の設立が出願された(『福井北日本新聞』明44・4・19)。七月には鉄道院から技師が派遣されて、競願の武岡と鯖粟の両路線の実地測量が行われ、九月二十八日、軽便鉄道免許状が下付された(『福井北日本新聞』明44・7・10、12、『官報』第八四八五号)。
 十月に武生町で武岡軽便鉄道創立委員会が開かれ、発起人総代の三田村が創立委員長となり、四十五年四月に第一回株主総会が武生町で開かれた。取締役・監査役が選ばれ、取締役には武生町の渡辺源太郎(専務)・三田村・岩堀頼之助、粟田部村の木津群平、岡本村の吉崎宇右衛門、上池田村の橋本嘉兵衛が就任した。本格的な業務が開始され、軌間が七六二ミリメートルに、日野川の木橋が鉄橋に変更、線路敷設位置も、味真野村五分市の毫摂寺付近に迂回変更となった。また、歩兵第三六連隊にいたる支線と西田中にいたる支線の計画も起こったが、両延長線とも敷設にはいたらなかった(『福井北日本新聞』明44・10・13、大正1・9・5、11・30、12・19、『福井新聞』明45・4・3)。
 大正二年五月に着工し、三年一月三〇日に新武生・五分市間が開通した(『福井新聞』大2・5・14、『福井日報』大3・1・30)。軽便鉄道としては、福井県で最初の開通で、新武生・塚町・北・五分市の各駅が設置され、七往復運転され、所要時間は二四〜二七分、運賃は三等で一二銭であった(『福井新聞』大2・11・8)。五分市以東については、五分市・粟田部間が三年五月二十二日開通、粟田部・岡本間は四年八月二十六日開通、工費は全線で二四万八〇〇〇円を要している(『福井新聞』大4・9・12、『福井日報』大4・9・12)。
 武岡軽便鉄道は、七年三月に武岡鉄道と改称、十三年三月には今立鉄道を合併して南越鉄道となった。同年七月には軌間を一〇六七ミリメートルにし、九月十二日には、岡本新より今立郡北中山村戸ノ口まで延長開通した。
 敷設工事のさなか、二年八月、武生町では浸水約八百戸におよぶ大水害にあい、翌月には、町の中心部がほとんど全焼する大火に見舞われた(『福井新聞』大2・8・20、9・21)。あいつぐ惨禍を越えて敷設が実現したのは、この鉄道が、武生町の三郡の中心的な都市としての威信を示すものであったからであろう。



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