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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
    二 地方鉄道の敷設
      丹南の軽便鉄道敷設計画
 明治四十三年(一九一〇)八月、今立・南条・丹生三郡への鉄道敷設計画が起こった。福井市から芦原温泉・三国町・吉崎御坊・大聖寺を経て山中温泉にいたる路線、武生町から第三六連隊を経て福井市にいたり三国への電鉄に接続する路線、武生町から今立郡粟田部村と丹生郡四箇浦村にいたる路線に電気鉄道を敷設するという京都電灯の構想である(『福井新聞』明43・8・27)。
 四十三年十一月、丹生郡宮崎村江波の谷野泰蔵が、資本金二五万円で、武生町から四箇浦道に沿って神山村高瀬・大虫村上大虫・白山村安養寺・織田村織田を経由して四箇浦村梅浦にいたる路線に、武浦軽便鉄道の敷設を計画した(『福井新聞』明43・11・16)。路線論議が沸騰し、武生町から大虫村下太田・宮崎村樫津・織田村織田を経て四箇浦村にいたる路線、さらに武生町から高瀬・上大虫・安養寺・宮崎村小曾原・四箇浦村厨を経て梅浦にいたる路線も浮上し、越前海岸と武生町を結ぶ谷筋の数だけ路線案が生まれた(『福井新聞』明43・12・2、『福井北日本新聞』明44・1・17)。四月には、武生町・大虫・小曾原・織田・四箇浦の路線に決定し、八月ごろ丹生郡と武生町の発起人によって武西軽便鉄道株式会社の設立が出願されたが、翌年八月には却下された(『福井新聞』明44・4・16、『福井北日本新聞』明44・8・6、大正1・8・26)。
 鯖江町と粟田部村を結ぶ電気鉄道敷設の計画は、四十四年二月に開かれた今立郡民政資料調査会での鯖江町の桑原甚六の発議が初見である。東忠蔵南条郡長は、武生・鯖江両町の協調をはかるため、行司ケ岳(三里山)の周辺を循環し武生町・鯖江町・粟田部村間を結ぶ鉄道の敷設を構想し交渉を進めたが、実現にはいたらなかった。この構想の背景には、地域の名望家層を結集して公共的事業を起こし、三郡に新しい秩序を構築しようとする政治的ねらいがみられる(『福井北日本新聞』明44・2・19、20)。四十四年三月末、今立郡国高村の森広三郎ら九人を発起人に、資本金一五万円で鯖粟軽便鉄道株式会社の設立が出願されたが、武岡軽便鉄道と競願となり、四十四年九月に不認可となった(『福井北日本新聞』明44・3・27、10・2)。この地域は、羽二重織物を中心に産業革命が進行中で、「絹の鉄道」とでもいえる産業鉄道的性格を有していた。
 鯖江町と粟田部・岡本両村を結ぶ鉄道は、大正十年十一月に今立鉄道株式会社となって復活する。資本金四〇万円の蒸気鉄道で、武岡鉄道の岡本新停車場から粟田部・南中山・北中山・中河・新横江の各村を経て北陸線鯖江駅にいたる路線で、十一年九月に免許が下付されている。



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