電気事業は、明治十九年(一八八六)の東京電灯会社の開業を嚆矢とし、二十一、二十二年には神戸、大阪、京都、名古屋でも火力発電による電灯会社があいつぎ誕生した。初期の電気事業は、二十四年の「電気営業取締規則」のように、危険な事業として取締りの対象であった(『現代日本産業発達史』)。福井県でも電灯への関心が生まれ、二十三年五月には福井市に帝国電灯会社福井支社が設立され、翌月には『福井新聞』が「福井市電灯のこと」と題する論説を載せた。二十七年には、福井市の伊藤練工場に発電機が設置されて電灯がつけられ、三十一年には、三菱合資会社が面谷鉱山に自家用として五〇キロワットの水力発電所を設置した(「福井新聞」明23・5・9、6・21、22、26、29、『福井』27・11・7、資11 二―一四二)。
福井県の電気事業は、京都電灯株式会社福井支社の開業が最初である。二十八年末、同支社が福井市佐佳枝町に設立され、足羽郡酒生村宿布に足羽川を利用した水力発電所を建設することになり、三十年五月に認可された(『京都電灯株式会社五十年史』)。二十九年一月の宿布区住民との契約では、同区の新田潅漑用の用水路を拡張し、導水路として利用することになっている(資11 二―一四三)。宿布発電所は三十年十一月起工、三十二年二月竣工、出力八〇キロワットの発電機が設置され、五月二十一日、福井市内に配電を開始した。福井県の「電気元年」、三十二年末の供給の内容は、配電戸数二二五戸、五二八灯、および街灯七灯である。一般家庭の使用電灯は一六燭光(二〇ワット)以下が大部分で、料金は一か月一灯一円であった(『県統計書』、資11 二―一四二)。三十三年からは、精米・製氷・製材に動力の供給も開始された。三十四年には、八〇キロワットの発電機を増設、発電力は一六〇キロワットとなった。 |