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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
    一 電気事業の発展
      各電気会社の開業
 明治三十年代、電気事業は全国的に急速な発展をみた。政府は、明治四十四年(一九一一)三月に「電気事業法」を制定し、電気事業を基礎産業かつ公益事業とし、保護・育成の政策に転換した。福井県内でも各地で電灯会社を設立する動きが起こってきた。
 敦賀電灯株式会社は、三十九年十一月に設立の認可を受け、翌年三月七日、資本金七万円で開業した。事務所は、敦賀町御手洗におかれた。四十一年二月、同町曙に出力七五キロワットの火力発電所が竣工した。配電当初は四六三戸・一〇六八灯で、動力の供給は大正元年からである。需要増への対応と燃料費節減のため、明治四十三年には、粟野村山に黒河川を利用して出力二五〇キロワットの粟野水力発電所が竣工した。配電区域が粟野村にも広げられ、四十四年三月には一四八四戸・三二六六灯となり、大正六年には松原・東郷の両村にも拡大した(『敦賀郡誌』、『県統計書』)。なお十二年には、疋田川を利用して中郷村に出力五三〇キロワットの疋田水力発電所が設置されている。
 今立郡に電気事業計画が起こったのは、明治三十五年ころのことである。東京帝国大学で電気工学を修めた鯖江町出身の富田薫と鯖江町の福島文右衛門らの調査で、上池田村持越を水力発電所建設の適地としたが一時中断、その後、鯖江町の福島・井波五郎三郎・川上宗二・桑原甚六、上池田村持越の倉内市兵衛を発起人に、四十年五月に設立認可を受け、四十一年二月、越前電気株式会社が資本金一五万円で、今立郡新横江村東鯖江に設立された。足羽川上流の落差の大きい地形を利用した持越水力発電所は、四十二年六月竣工、八月十九日に出力二五〇キロワットで営業を開始、当初より電灯と電力の双方を供給した(『越前電気株式会社小史』)。電気の供給ルートは、「起業目論見書」では、発電所から粟田部村の変電所にいたり粟田部・岡本の両村に配電、ついで鯖江町の変電所へ、ここから鯖江町と新横江・舟津・神明、丹生郡立待の各村、武生町に配電された(資11 二―一四五)。四十二年末で、電灯は今立郡下配電戸数五一五戸・一四三八灯、南条郡下配電戸数六七七戸・一三七四灯、動力は今立郡下八戸・一二馬力、南条郡下二戸・四馬力となっている(『県統計書』)。
 大正四年には、持越に出力二五〇キロワットの発電機が増設され、新横江村に二〇〇キロワットの東鯖江火力発電所が竣工した(『県統計書』)。その後、十五年には、大味川を利用して丹生郡殿下村向山に出力二〇〇キロワットの大味水力発電所を設置、昭和三年には、河野水電より出力三〇〇キロワットの第二日野川水力発電所を買収、四年には下池田村白粟に出力四〇〇キロワットの白粟水力発電所を設置した。
 坂井郡三国町では、当初、同町松ケ下と汐見に火力発電所を設置するという二つの起業計画があったが、双方の和解で後者となった(『福井新聞』明43・2・19)。三国電灯株式会社は、三国町の橋本利助・光成宗太郎・岸名基・光成清士・高山定吉・佐々木宇平・津田彦右衛門ら一四人が発起人となり、資本金は五万二〇〇〇円で、事務所は汐見におかれた。明治四十三年五月に設立認可を受け、翌年三月、出力八四キロワットのガス火力発電所が竣工、四月一日より配電を開始した。当初の配電区域は三国町に限られ、七六四灯であったようであるが、同年末には配電戸数一一五四戸・一八一〇灯に拡大した。大正四年七月、竹田川を利用して坂井郡長畝村長畝に二一〇キロワットの川上水力発電所が竣工し、三年末には三国・金津の両町、芦原・雄島・新保・加戸の各村で三三九五灯であったものが、四年末には三国・金津の両町、芦原・雄島・新保・加戸・坪江・伊井・細呂木・木部の各村で計三八二九灯、翌年には本荘・長畝・東十郷の各村にも配電されて五三二〇灯となり、飛躍的に増大した(平野三郎家文書)。
 若狭地方では、二事業が設立されている。小浜電灯株式会社は、明治四十三年九月に設立認可を受け、資本金は五万二〇〇〇円で、事務所は小浜町住吉におかれた。遠敷郡今富村伏原に、出力七〇キロワットのガス火力発電所が建設され、四十五年一月十一日から配電が開始された(『電気事業要覧』)。配電区域は小浜町と雲浜・西津の両村で、大正元年末の配電戸数一〇九六戸・二三九九灯であった(『県統計書』)。四年には、若狭水力電気株式会社の事業を受け継ぎ、四年十二月には根来川を利用して遠敷村に出力二〇〇キロワットの下根来水力発電所が竣工、翌年には社名も若狭電気株式会社とした(『電気事業要覧』)。なお、八年には熊川村に出力一三〇キロワットの熊川水力発電所が設置された。
写真168 若狭電気小浜発電所

写真168 若狭電気小浜発電所

 高浜電気株式会社は、明治四十四年十一月に設立認可を受け、資本金は五万五〇〇〇円で、事務所は大飯郡高浜村事代におかれた。発電所は高浜村宮崎に出力二〇キロワットのガス力による火力発電所が建設され、大正二年四月九日から配電が開始された(『電気事業要覧』)。配電区域は高浜・和田・本郷の各村で、配電戸数三四九戸・五七八灯であった。六年には、若狭電気株式会社に合併した(『県統計書』)。



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