目次へ 前ページへ 次ページへ


 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
    一 電気事業の発展
      大正期の電気事業
 明治末年から大正年間、福井県における電気事業は、全国的傾向と同様におおいに発展した。京都電灯福井支社では、宿布・中尾・小和清水に加えて、大正四年(一九一五)に福井市日ノ出下町に蒸気力による出力三二〇キロワットの日ノ出火力発電所、七年に滝波川を利用して大野郡北谷村に出力八〇〇キロワットの木根橋水力発電所を、八年には同川を利用して大野郡野向村に出力八〇〇キロワットの薬師水力発電所を建設して、急増する需要に対応した。同社は、八年の福井県下の発電所数一八、発電力九四七三キロワットのうち、発電所六、発電力三三五七キロワットで、それぞれ三分の一を占めており、抜きんでた位置にあった。
 表226は、大正期に設立された電気会社である。このうち勝山電気株式会社は、勝山の機業家が勝山工業電気使用組合を設立し、その後株式会社に変更したもので、おもに機業家用の電力を供給した。なお坂井郡の吉崎・北潟の両村は、八年から大聖寺川水電株式会社の山中水力発電所から配電をうけた。

表226 大正期の電気事業

表226 大正期の電気事業
 大正十年末の県内の電気事業は、後述の大同・白山水力を含めて電気会社一六社、発電所二二(うち水力一三・火力三)、現在発電力一万二六七八キロワットとなった。配電戸数は九万八七三二戸、電灯数二三万六四九五灯、動力戸数二六〇一戸、動力数八六五四馬力で、電灯のうち、一般住家は九万五二一九戸、電灯数一七万二〇三四灯であった。十年の福井県下の全戸数は一一万八八三八戸であったので、八〇パーセント(明治四十年は〇・八パーセント)に配電されていた。街灯の激増も注目できる。一万三五八四灯が設置され、夜間の戸外にも随所に明かりが見えるようになった。また、十年の絹織物力織機台数は二万三二三四台、同手織機一七五〇台となり、明治四十一年と地位が逆転している。生活・産業の両面で大きな変化がみられた。
 山間や海辺地域への電気供給は不十分で、産業組合や共同事業による発電施設で自家用に供する方法がとられた。産業組合では、大正十四年一月、足羽郡下宇坂村宇坂大谷への配電を目的とした宇坂電気利用組合が一・五キロワットの自家用水力発電施設の使用を、共同事業では、十四年五月、遠敷郡内外海村堅海への配電を目的とした木村久蔵ら七三人が三・五キロワットの自家用水力発電施設の使用を、それぞれ認可されたのが最初である(「大正昭和福井県史 草稿」)。
 以後、産業組合では、大正末年には南条郡宅良村の杉谷、大野郡の石徹白、芦見、同郡上庄村の下若生子、丹生郡常磐村の上戸の各電気利用組合、昭和初期には大野郡西谷村の中島、上穴馬村の大谷、上庄村の宝慶寺、阪谷村の阪谷、平泉寺村の小矢谷、西谷村の下秋生、五箇村の打波の各電気利用組合、昭和十年代には坂井郡本郷村の河内、大野郡上穴馬村の下半原、五箇村の下打波、野向村の北野津又の各電気利用組合が、それぞれ水力発電施設の使用を認められている。また共同事業では、大正末年には大野郡北谷村中野俣、同郡上庄村佐開、今立郡下池田村美濃俣、昭和初期には南条郡宅良村、今立郡下池田村大本、足羽郡下宇坂村三万谷、坂井郡本郷村東平で、それぞれ水力発電施設の使用が許可されている。最大でも阪谷の三〇キロワットで、大部分が五キロワット以下の小規模なものであった。



目次へ 前ページへ 次ページへ