目次へ 前ページへ 次ページへ


 第五章 大正期の産業・経済
   第三節 銀行合同と商業の発展
    三 対岸貿易の展開
      朝鮮貿易の比重上昇
 大正九年(一九二〇)の戦後恐慌は、第一次世界大戦ブームの主因が対外的な競争条件の変化にあっただけに、それが正常な姿に戻ると、わが国経済は激烈な打撃をうけた。投機の破綻の影響もかつてないほど広範で、中小の貿易商社の経営難がいっきょに露呈し、貿易収支は大幅赤字に陥った。敦賀港を拠点とした日露貿易は、それよりさきにロシア革命とシベリア出兵によって二重の打撃をうけていた。すなわち、六年三月にロシアに社会主義革命が起こり、十一月にはソビエト政権が誕生した。さらに七年七月にロシア革命に対する干渉戦争の性格を有する日・米・英・仏四か国のシベリア出兵の協定が結ばれ、政府は八月に出兵を宣言した。敦賀港は、その輸送基地となり、十一年十一月の最後の撤兵まで数万の兵士の輸送を続けたので、港は毎年出征・帰還の兵士の姿が目立ち軍需港のような様相を帯びていたという(『敦賀市史』下)。この衝撃がいかに大きかったかは、敦賀港の貿易額が、大戦ブームのまっただなかの六年に早くも減少に向かっていることでも明らかである。九年の反動恐慌以降は、シベリア撤兵の遅れによる日ソ両国の対立の深まりも手伝って港は急速に冷え込んだ。表224に示したように十一年の輸出額は五年のわずか四・四パーセントに落ち込み、貿易収支も黒字から一転して二四〇万円の赤字を記録している。大戦ブームはうたかたのように消え、後遺症は長く尾を引くが、貿易構造は不振の外国貿易から植民地圏貿易、なかでも朝鮮貿易へとシフトしていくこととなる。
 四年七月に輸移入獣類検疫所が敦賀に設置されることに決まった。大和田荘七は朝鮮北部との直通航路(日本海横断航路)開設運動をみのらせるため、その前提として朝鮮牛移入の実績をあげようと、さっそく朝鮮に渡り、元山・城津の有志と熟談して朝鮮牛二五〇頭を買いつけた。一方、政府の許可をえて縄間の自己所有地に仮獣類検疫所を建設し、十二月二十五日に朝鮮牛を積載した嘉辰丸(一一〇〇トン)が敦賀に入港した。五年十月には農商務省の輸入獣類検疫所が松原村釜ノ口に完成し、検疫業務が始まった。大和田荘七が買いつけた第二回の朝鮮牛二五〇頭は十一月に城津から入港し、初検疫をうけた。のちに「赤牛」の名で全国に知られる朝鮮牛の移入が軌道にのったのである。しかし、第一次世界大戦による船舶不足のため移入に莫大な経費がかかるようになり、朝鮮牛移入は困難に直面した。この事態を打開するためには、政府の援助による日本海横断航路の開設が必要であった。敦賀商業会議所が明治末から続けてきた定期航路開設運動は一段と熱を帯びていった。
写真166 朝鮮牛の移入

写真166 朝鮮牛の移入

 七年四月に敦賀・清津間(元山、城津経由)の政府命令航路が開設された。一〇年にわたる北朝鮮直通航路開設の働きかけがみのったのである。朝鮮郵船会社は朝鮮総督府から年三〇万円の補助金をうけ、二か月に五回運航した。当初は平壤丸(一一二七トン)が就航したが、積載貨物が多いため、同年九月に平安丸(一五八〇トン)に代えた。それでも滞貨が出たので八年五月からは立神丸(二四八四トン)に代え、積載能力の増強をはかった(『大和田翁』、『敦賀市史』下)。命令航路の充実とともに、対ソ貿易の衰微をよそに対朝鮮貿易は急速に発展していった。表225でみると、六年の貿易額は四〇万円台であったが、八年は五三二万円に急増し、十三年には外国貿易額五二〇万円を約一五〇万円も上回るように膨張している。一方、貿易収支をみると、終始入超であり、十三年のその超過額は四七八万円にのぼっている。これは食料・原料の対本土移入基地としての性格を高めていった証左である。つまり朝鮮がもし外国であれば正貨流出を招いたという意味で間接的に、わが国の正貨蓄積に寄与したことになる。おもな移出品は、藁工品・綿製品・漁網・酒類・陶磁器などである。また移入品は、大豆を筆頭に豆粕・米・生牛・小豆・魚肥(鰯粉が中心)・海産物などである。食料・原料などの供給基地としての役割を担わされていたのである。さらに朝鮮牛の移入もしだいにふえ、大正末期には五〇〇〇頭台、昭和四年(一九二九)には六〇〇〇頭台を記録している。全国各地に配られ、一、二年間農耕用として使役しているうちに肉質がよくなり、肥満したところで肉牛として屠殺された(資11 二―一四〇、『敦賀市史』下)。

表225 敦賀港の主要対朝鮮貿易品(大正6、8、11、13年)

表225 敦賀港の主要対朝鮮貿易品(大正6、8、11、13年)



目次へ 前ページへ 次ページへ