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 第五章 大正期の産業・経済
   第三節 銀行合同と商業の発展
    三 対岸貿易の展開
      ウラジオ景気と敦賀港
 第一次世界大戦期を通じてわが国に未曾有の好況をもたらした直接の原因は、貿易と海運の急膨張であった。敦賀港を拠点とした日露貿易も大幅黒字を記録し、小さな敦賀の町は一躍国際港として脚光を浴びることとなった。貿易額でみると、大正三年(一九一四)の六二九万円から、四年には六倍強の四〇〇五万円、さらに五年には五五九八万円に達し、わが国貿易港中第五位を占めるにいたった。三年から七年にかけての貿易収支は合計一億五四〇〇万円弱という未曾有の大幅黒字を記録している(資11 二―一三七、『敦賀市史』下)。その原因は外国貿易の九〇パーセント強を占める対露貿易が好転したからである。五年七月下旬からウラジオストクを視察した松村才知福井県内務部長は復命書のなかで「欧州大戦ノ勃発スルヤ、欧露ノ西境為メニ閉塞セラレ軍需品ハ勿論一般ノ物資ニ至ルマテ、主トシテ此港ニヨリテ呑吐セサル可カラサルニ至リ、貿易ノ額著シク増加シ異常ノ発達ヲナセリ」と、価格、品質にかかわらず軍需品や一般商品がとぶように売れ、陸送貨車の奪いあいが起きているようすを報告している。こうした日露貿易の拡大のなかでもひときわ急膨張したのが敦賀・ウラジオストク定期航路である。港別貿易額では三年に敦賀が横浜を抜き、五年まで第一位となっている(大正五年『公文雑簒』巻三二)。

表224 敦賀港の主要貿易品(大正3、5、11年)

表224 敦賀港の主要貿易品(大正3、5、11年)
 最高の貿易額を記録している五年の主要輸出品は、表224に示したように銅・真鍮・鉄・機械部品などの軍需品をはじめ、生糸・毛織物(羅紗・セルなど)・綿織物(メリヤス製が中心)・化学薬品などである。明治四十年代に対露輸出の上位を占めていた野菜・果実は、大正四年十二月から関税がかけられるようになり、輸出額は四年の八五万円台から五年は四四万円台に減少している。しかし、野菜・果実はウラジオストク・ハバロフスク両市とその奥地のロシア人にとっては欠かせない食料で、主要な輸出品に変わりはなかった。敦賀の菜果輸出商(九商店)は、全国の産地から出荷される野菜・果実をおもに委託販売の取引方法で船積み輸送し、ウラジオストクの輸入商(邦人一二人、中国人一人)が荷うけして小売商に売りさばいていた。当時の海上輸送には多くの困難があったようである。大阪商船の鳳山丸・交通丸は全部中甲板積みで荷物の損傷は比較的少なかったが、義勇艦隊の積荷は上甲板積みのみで輸送されたから、西瓜やりんごなどは暴風雨のため海中に吹き飛ばされ、荷主は災禍をうけることもときどきあった。また、夏期に輸出されるいちご・さくらんぼ・桃・馬鈴薯などは航海中に蒸熟して腐敗することもあり、冬期に輸出される柑橘類・パセリ・花野菜などは凍傷をうけ、ウラジオストク港到着とともに放棄されることもしばしばあったという。さらに陸揚げの手数を省くため上甲板から棧橋に長さ五、六間、幅二尺内外の樋を斜めにかけ、野菜や果実を樋を通して降ろしたので、完全な荷造りのものも損傷を生じ、泉州の玉葱箱などは被害が大きかった。棧橋に降ろした農産物はおもに苦力(中国人の労働者)、またはロシアの囚人によって一梱ずつ背中に負って運ばれ、輸入商の指揮のもとに商店別・品種別に分け重積していった(福井県農会農事試験場『園芸品浦港輸出状況調査報告書』)。一方輸入品は、中国(満州)の豆粕・大豆、アメリカの石油、ロシア(沿海州)の小豆などが中心であった。



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