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 第五章 大正期の産業・経済
   第三節 銀行合同と商業の発展
    三 対岸貿易の展開
      対露・対中国貿易の進展
 日露戦争の結果、わが国は、ロシアから長春・旅順間の鉄道と関東州租借地を譲りうけ、これを日清条約で中国(清国)に認めさせるなど、南「満州」(以下満州と略記)を勢力圏に編入した。このため敦浦定期航路による貿易は、対ロシアにとどまらず満州にも深く進出することとなった。明治四十年(一九〇七)十月に敦賀港は横浜・神戸港などとともに国営の第一種重要港湾に指定されているが、政府が「満州の権益擁護」につながる要港としていかに重視していたかをうかがわせる。
 四十年代の貿易はロシアへの綿製品輸出と満州からの大豆・豆粕の輸入が基本構造となっている。なお、野菜・果実の輸出も高い比重を占めているが、これはウラジオストク、ハバロフスク両市とその周辺に限られていた。外国貿易の内容を若干立ち入って調べると、貿易額は、三十九年の一〇六万円が、四十年は二七六万円、四十一年は四九四万円と急増している。このうち日露貿易が占める割合は四十年で六九パーセント、四十一年で六七パーセントである。四十二年から四十四年はやや低迷しているが、大正元年(一九一二)には回復している。途中三年間の低迷の原因は、四十二年三月にウラジオストク港が従来の自由貿易港から有税港となり、野菜・果実を除いて輸入品に高率の関税がかけられるようになったためである。また、貿易収支は三十九年以降終始大幅な出超=黒字を記録している(資11 二―一三七、福井県農会農事試験場『園芸品浦港輸出状況調査報告書』)。おもな輸出入品は表223のとおりである。輸出では金巾・綿縮・肌衣・洋服・打綿などの綿製品と野菜・果実が上位を占め、鏡・びんなどのガラス製品も出ている。阪神・中京工業地帯を中心に製造される軽工業品が四十年代に早くもロシアへ進出していることが注目される。輸入品は、石油・大豆・豆粕・飼料が上位を占めている。石油は三十八年にアメリカ・スタンダード石油会社が金ケ崎に貯油倉庫を築造し、直輸入したもので、毎年四〇〜五〇万円が輸入されている。これを除くと、満州産の食料・原料が主体であり、満州が早くも食料・原料の対日供給基地化しつつあることを示している。

表223 敦賀港の主要貿易品(明治40、42、44年)

表223 敦賀港の主要貿易品(明治40、42、44年)



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