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 第五章 大正期の産業・経済
   第三節 銀行合同と商業の発展
    三 対岸貿易の展開
      日本海航路の開設
 敦賀港を拠点とした外国貿易が定着するのは明治四十年(一九〇七)以降である。その展開過程を、わが国の貿易構造の特質に即して明らかにしていくが、その前提としてまず、三十年代の定期航路の開設など、貿易機構の創出状況の検討からはじめる。三十二年七月に改定条約の実施にともなって開港令が出され、敦賀港は、新潟・伏木・七尾港などとともに開港場=外国貿易港に指定された。大和田荘七ら敦賀の商人は、指定貿易港としての責任貿易額五万円を達成することが先決問題であるとして三十三年に「敦賀外国貿易協会」(会長大和田荘七)と「敦賀貿易汽船会社」(社長大和田荘七)を設立した。貿易汽船会社は四月に大阪の商船会社から用船し、牛荘(中国遼寧省営口の上流)から大豆・豆粕を直輸入した。三十四年三月には汽船を購入し、牛荘との間に年四回の定期航路を開くことにし、県費助成もうけて大豆・豆粕の輸入を始めたが、二回の定期便を出しただけで中止する羽目に陥った。大豆・豆粕の価格変動が激しく欠損つづきとなったからである(大正五年「公文雑簒」巻四、『敦賀市史』下)。このように港格を維持することさえ容易ではなく、政府の補助金をうける命令航路の開始が待望された。大和田荘七は二十八年からウラジオストクに視察員を派遣して市場調査をすすめていたが、港格維持の困難に直面し、貿易協会を改編した「福井県外国貿易協会」とともに政府・国会への敦浦航路開始の運動を強めた(『大和田翁』)。
 三十五年に「日本海航路補助法」が制定され、二月に定期航路がひらかれた。政府は、大阪の大家商船に対し甲乙二線の就航を命令したのである。甲線は、敦賀・ウラジオストク間を中心に門司を起点(三十六年から敦賀を起点)として日本海沿岸一〇港、それに釜山・元山を周航、乙線は、七尾・ウラジオストク間を中心に小樽を起点として甲線諸港を逆に周航した。宿願が実現したのである。しかし、運航は四〇日に一回で、錯綜した航路は、「日本海の巡礼航路」と皮肉られ、利用者は少なかった。翌年から敦賀・ウラジオストク間航路と七尾・ウラジオストク間航路の交互運航となったが、それでも二〇日に一回のため不便が多く、政府もついに三十七年二月に七尾・ウラジオストク間航路を廃止した。阪神・中京工業地帯を後背地に擁する敦賀港が、貨客の集散が少ない七尾港を制したのである。この結果、ウラジオストク直航は敦賀一港となり、国際貿易港としての地位を確実なものとしていく(『大和田翁』、『敦賀市史』下)。
写真165 鳳山丸

写真165 鳳山丸

 日露戦争の勃発によって敦賀港は邦人引揚げのうけ入れや軍需物資の積出しに追われ、三十七年の貿易額は皆無となった(資11 二―一三七)。しかし、平和回復後の三十九年二月にロシアはシベリア鉄道を開放し、ウラジオストク港を「東亜への門戸」として対日貿易の回復に力を入れた。ロシア東亜汽船のモンゴリア号(二九三七トン)が七月から敦賀・ウラジオストク間の直通定期船として週一回の就航をはじめた。一方、わが国では四十年三月、大家商船に対する補助期限が満了したのにともない、政府は新たに大阪商船に敦賀・ウラジオストク間定期航路の経営を命じ、大和田荘七はその代理店となった。当初開城丸(二〇八〇トン)が週一回就航したが、七月から新造した鳳山丸(二五〇九トン)がこれにとって代わった。鳳山丸は長さ九六メートル、幅一二メートルの新鋭船で、三等から一等までの船室に全部で二一七人を収容した。輸出入される貨物はすべて中甲板に積載した(『大阪商船株式会社八十年史』)。これに呼応するかのようにロシアでは四十年六月から義勇艦隊が東亜汽船に代わって経営にのりだした。秋には長崎航路からルンムン号を転用増配したので、敦賀・ウラジオストク間は一週三回、つまり隔日運航となり、欧亜を結ぶ国際動脈にふさわしい内実を備えていった(福井県農会農事試験場『園芸品浦港輸出状況調査報告書』、『大和田翁』)。なお、四十五年六月十五日には東京と欧亜を結ぶ新橋・金ケ崎間の欧亜国際連絡急行列車(週に一往復)の第一便が金ケ崎に到着している(『敦賀市史』下)。



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