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 第五章 大正期の産業・経済
   第三節 銀行合同と商業の発展
    二 商業の発展と再編
      商品経済化の深化
 第一次世界大戦は、輸出増と輸入減および世界的な物価上昇によって、わが国に未曾有の好況をもたらした。福井県も大正五年(一九一六)から羽二重など輸出向絹織物の産額がふえはじめ、六年には米価が四年の一・七倍に上昇するなど、大戦ブームが県下に浸透した(『県統計書』)。このため中小商工業者や農家の所得は増大した。表221でみても、所得額二〇〇〇円以上の第三種(個人)所得税の納入者は、三年の五三七人から九年の二一五三人へと増加し、所得額は四三〇パーセントの増加率を示している。各郡市ともむらなく伸びているところにブームの深化がみられた。さらに機織工女・製糸工女・農家日雇い・土木建築職人らの名目賃金も物価上昇を追って急騰した。七年七月一日の『朝日新聞』は「贅沢な機織工女_外米の売れぬも道理」という記事のなかで、「朝夕の工場通ひに絽のコートを纏ひ……内地一等米を食し」と伝えている。このように第一次世界大戦の好況は、あらゆる階層にわたって所得の増加をもたらし、それは肥料や呉服・衣料品などの需要を拡大し、卸売・小売部門の繁栄をもたらしたのである。このことは、鉄道貨物の激増のため金ケ崎駅構内に滞貨が山積し、貨車の増配を求める七年の敦賀商業会議所の意見具申書に端的に現われている(資11 二―一三〇)。ここで大戦ブーム期における米穀と絹織物の流通機構の特色を検討しよう。

表221 第3種所得税納入者(2,000円以上)数と所得金額

表221 第3種所得税納入者(2,000円以上)数と所得金額
 四〜九年の平均米収穫高は一〇二万石であるが、米価は四年の石あたり一二円から八年の四四円へと急騰し、農家経済の商品経済化はいっきょに深まった(『県統計書』)。米穀の集散地は、鉄道沿線の福井市、武生町、三国町、丸岡町、金津町などで、米穀商と農家を仲介する仲買人がいた。米穀倉庫は、米穀商の倉庫のほかに営業倉庫として福井倉庫株式会社(森田村、金津町、三国町に計九棟、収容力八〇〇〇石)と森田倉庫部(福井市に八棟、収容力一万二〇〇〇石)があった(日本銀行金沢支店『石川福井富山三県ニ於ケル米穀』)。五年までの県外移出米平均は約二四万石で、このうち五五パーセントが東京、二五パーセントが北海道向けであった。県内流通分も含めた米穀取引は正米取引と定期取引に大別される。正米取引は小農が集散に便利な場所まで米穀を搬出し、米穀商と現金取引を行うのが普通である。地主は米廩(米ぐら)をもっているので小農のように売りいそぐ必要がないため、高値を待って売る者が多い。金融逼迫の際は預け米と称し米穀商に出穀して中勘定を借入れ、ころあいを見はからって相場を仕切る場合や予約売買(指値売買)もある。定期米取引は、米価が安値のときや正米相場の方が安いときに正米の買占めを行い、定期に売つなぐ思惑売買の取引方法である。五年末および六年春にこの種買占めがさかんに行われ、北陸三県の営業倉庫は売つなぎ米で充満したという(日本銀行金沢支店『石川福井富山三県ニ於ケル米穀』)。このように六年から八年の米価急騰期には地主も米穀商に伍して流通機構に参入し、商人的利得をあげることができた。また、米の生産手段であるニシン、大豆粕、硫安などの金肥は産業組合などによる共同購入も始まったが、八年現在でもその量は全体の一六パーセントにすぎなかった(『大阪朝日新聞』大8・7・7)。
 羽二重、縮緬など輸出向絹織物の生産額は、四年の約三一七〇万円から八年の一億五六八〇万円へと五〇〇パーセントの伸びを示している(『県統計書』)。県内の取引機構をみると、輸出が急速に伸びた七年から織物商が直接有力機業家に製品を発注する例がふえ、最有力生糸商の西野商会も縮緬を発注している(資11 二―八八)。このことは、仲買人―羽二重商という形の県内流通機構が崩れ、生糸問屋の新規参入によって絹織物移出をめぐる企業間競争が流動化したことを告げるものである。さらに横浜における売込問屋―内外輸出商という取引ルートも邦人輸出商の産地直接買入れの強化によって、売込問屋は弱体となり、大きく崩れた。すなわち、茂木合名会社(二年に設立)が六年に絹商部を新設して、三井物産とともに福井・金沢に設置した直属の買入れ機関によって活発な仕入れを展開したからである(『横浜市史』五巻上)。有力輸出商が圧倒的な地位を築いただけ地元商人の地位は低下をまぬがれなかった。



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