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 第五章 大正期の産業・経済
   第三節 銀行合同と商業の発展
    一 銀行の合同
      福井信託株式会社の設立
 第一次世界大戦後の金融制度整備の一つとして、大正十一年(一九二二)四月に「信託業法」が制定された(十二年一月施行)。同法によって、長期・大口の貯蓄(信託預金)を受け入れることができるのは、資本金一〇〇万円以上の株式組織の信託会社に限られることになった。しかも政府は、信託会社について一県に一社しか設立を認めない、つまり一県一社主義の方針を採った。
 わが国の信託業務は信託業法施行後も金銭信託が中心であった。金銭信託というのは、一口一〇〇〇円以上、期間二年以上の定期預金に類似したもので、信託者(預金者)が信託した金銭をまとめて、信託会社が貸付や有価証券投資などに運用しその運用収益を配当(利子)として支払うものである。信託業法施行前には明治四十四年以降、福井県にも信託会社と称するものが一一社あったが、その業務は無尽、金銭貸付、不動産・有価証券売買など雑多なものも含まれていた(『県統計書』、『帝国銀行会社要録』)。それが、不健全な信託業を取り締まることを直接の契機とした信託業法によって業務内容が整理され堅実な大口・長期の貯蓄機関としての信託会社が新たにつくられることになったのである。大正十三年三月に信託業法によって設立された三井信託株式会社の業績がめざましく、それから財閥系の信託会社をはじめ全国各地で信託会社の設立計画があいついで発表された。
 信託会社の発展につれて、福井、大和田、森田各行など地元銀行の預金が関西地区の信託会社へ移動するのが目立つようになった。市橋保治郎福井銀行頭取は地元資金の流出を防止し、産業発展の資金とするため、地元にも信託会社を新設しようと計画した。県内産業界もこの計画を歓迎し、十五年六月に福井信託株式会社の設立が申請された(『福井銀行八十年史』)。しかし、信託会社設立の動きは福井銀行系だけではなかった。同年十月に福島文右衛門ほか九人から若越信託株式会社設立の内申請が行われ、競願となった(『福井新聞』昭2・9・7)。福井県知事市村慶三は一県一社にまとめるため、大和田銀行頭取大和田荘七の長男正吉を発起人に引き入れる仲介の労をとるなどして両社の妥協を求め、昭和二年十二月二十八日に福井信託株式会社が設立された。資本金は三〇〇万円、社長は市橋保治郎であった(『福井新聞』昭2・12・2)。こうして同社は三年一月二十日に金銭信託を中心に営業を開始した。四年十一月期では金銭信託規模で全国第一六位にランクされていたが、十一年十一月期には五位となり、以後五位に定着した(「福井県信託業の成立と終末」『信託』一二七)。なお、同社は十九年十二月に福井銀行に合併された。



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