目次へ 前ページへ 次ページへ


 第五章 大正期の産業・経済
   第三節 銀行合同と商業の発展
    一 銀行の合同
      緩やかな銀行合同
 反動恐慌後の福井県の銀行合同は、大正九年(一九二〇)九月に大和田貯蓄銀行が親銀行の大和田銀行に合併されたのが始まりである。以後、不況・恐慌が続く昭和五年(一九三〇)までに一六件の合同(買収を含む)が行われた。このうち五件は有力地方銀行である福井銀行による合同であったが、残る一一件は人的、地縁的関係がある中小銀行を中心とした合同や買収であった。これは有力地方銀行の一方の旗頭であった大和田銀行による合同が実質上皆無であったことが大きな原因である。このため嶺南地方では、合同に応じたのに昭和十一年以降、大和田銀行による第二次合同を余儀なくされる銀行が現われた。そうした状況を個別具体的に明らかにするために少し立ち入って検討しよう。
 嶺南地方の推移からみよう。二十五銀行は大正十五年四月に製糸業への大口固定貸しのため経営不振に陥った小浜銀行を吸収合併した。大蔵省と福井県は銀行法が制定された昭和二年三月以降に森田、第五十七(以上嶺北地方)、敦賀、二十五の四銀行合同案=若越銀行案を立て合同促進につとめたが、本店を福井市に置くことに嶺南地方の二行が強く反対して行き詰まった。その結果敦賀銀行と二十五銀行のみが三年十二月に対等合併して敦賀二十五銀行を新立した。同行は、大蔵省・福井県が内示した嶺南地方六銀行合同案(三方・嶺南・三宅・本郷・悠久・熊川の六行)から脱落した本郷銀行を四年七月に吸収合併した。熊川・悠久・三宅の三行は他行が脱落後も当初の方針どおり四年十二月に対等合併し、若州銀行を新立した。三方銀行は単独で残り、経営不振から西津村の若狭塗漆器業者に大きな打撃をあたえた若狭銀行を五年六月に買収した(『福井新聞』昭2・5・22)。この間、大和田銀行による普通銀行の合同は一件も行われなかった。

表220 福井銀行による合併銀行

表220 福井銀行による合併銀行
 一方、福井銀行は表220に示すとおり、嶺南地方の高浜、嶺南両銀行と嶺北地方の大七銀行、それに石川県の石川銀行の四行をつぎつぎと吸収合併し、さらに森田銀行との大型合併を達成した。森田銀行は二年末の預金残高が六七一万円で、県下第三位のシェアを占めていた。この合併により福井銀行は資本金、預金、支店数とも抜群の地位を占めるにいたり地方的独占状態を確立した。この合併をあっせんした安倍日銀金沢支店長(のち本店勤務)は普通銀行同士の合併の代わりに成績のすぐれていた福井銀行傍系の福井貯蓄銀行を森田貯蓄銀行に合併させて難問をまとめあげた(福井銀行文書)。なお、森田銀行はこれよりさき二年十月に石川県の加賀銀行を吸収合併し、三年十月に破綻寸前の勝山野村銀行を買収している。このように福井銀行を中心とした合同は根本的であった。しかし、嶺北地方でも第五十七銀行が四行合同案の挫折から宙に浮き、弱小銀行の洪盛銀行とともに残った。また、金融恐慌時に日銀の特別融通をうけた第九十一銀行は苦境を脱しきれず、三年八月に富山の有力地方銀行である十二銀行に買収された。これまでみてきたように福井銀行に合併された銀行はそれで完結したが、嶺南地方では一回の合同では完結せず、大和田銀行による第二次合同を強いられる銀行が出た。この差、つまり全体としてはゆるやかな合同に終わった原因は二つある。
写真163 福井銀行

写真163 福井銀行

写真164 大和田銀行

写真164 大和田銀行

 第一に、政府の銀行合同方針が一県一行に明確に固まるのは昭和十一年五月で、それまではルーズな合同が是認されていたことがあげられる。二年八月に大蔵省から銀行合同の具体案作成とその促進とを要請された福井県は各銀行から合同に応ずる旨の請書を出させたが、有力地方銀行の福井、大和田両行ははじめから除かれており、一県二行が事実上公認されていた。若越四銀行合同案と嶺南六銀行合同案を推進するため、同年九月下旬から福井に滞在していた山田鉄之助大蔵省銀行検査官は十月六日の『福井新聞』に楽観的な見通しの談話を発表している。その記事のなかで「存続銀行は嶺北二行嶺南二行」との観測記事も同時に掲載されている。大蔵省検査官の見通しどおりに合同が進むとすれば嶺北地方には福井銀行と若越銀行(仮称)、嶺南地方には大和田銀行と六銀行が一本化した一行が残る勘定になる。いずれにしても大蔵省と福井県はゆるやかな合同を実現させることが精一杯とみていたと推定される。しかし、実際には二つの合同案とも挫折し、福井銀行による合同だけが進み、嶺南地方で合同した銀行は戦時金融統制のなかで大和田銀行による第二次合同を余儀なくされていった。
 第二の原因として、有力地方銀行と中小銀行との間の利害対立や反感が根強かったことがあげられる。嶺南銀行はどんぐりの背くらべ的な嶺南六銀行合同案では将来性がないと、取引関係のあった大和田銀行へ合併を申し入れたが、条件があまりにきびしいため断念したという(『福井新聞』昭3・2・26、『福井銀行八十年史』)。福井銀行との合併に切りかえ、株主総会を開くばかりとなった三年三月に大和田銀行は嶺南銀行の重役に、もっと有利な条件で合併するから福井銀行との契約を廃棄するよう勧誘工作を行った。市橋保治郎福井銀行頭取は大蔵省銀行局長や福井県知事に電報や手紙を送り、「銀行合同妨害の悪例」と訴え、嶺南銀行重役は大蔵省から説得されて予定どおり合同した。合併される銀行側の動揺もあるが、有利な条件で合同しようとする有力地方銀行のエゴが露骨に出ていた。また、第九十一、第五十七両行は県内合同という大蔵省の方針にさからって富山の有力地方銀行に営業譲渡を行った。どのような条件であったか不明であるが、旧国立銀行以来の古い歴史と誇りが県内合同に応じなかった一因と考えることができよう。



目次へ 前ページへ 次ページへ