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 第五章 大正期の産業・経済
   第二節 絹織物業の展開
    二 大戦景気から「慢性不況」へ
      工場法の適用と女工
 明治四十四年(一九一一)に公布された「工場法」は、第一次世界大戦期の大正五年(一九一六)まで施行が引き延ばされるとともに、内容も原案と比べかなりの骨抜きがなされていた。工場法の適用範囲が、常時職工一五人以上の工場と事業の性質上危険または衛生上有害な工場に限定されたのである。それでも、工場監督官(福井県では工場監督官補)以下職員の工場臨検による取締りは、原則として、女子および一五歳未満者の一日一二時間を超える労働の禁止、深夜業(午後十時から午前四時)の禁止、休日・休憩時間の規定などに関して行われた。したがって、工場主にとってはとくに一二時間労働の問題が大きく、福井県でも県絹織物同業組合が代表者を上京させて、「時間延長」運動を行っていた(『大阪朝日新聞』大5・2・6)。
 福井県では五年一月、県警察部保安課に工場監督官補がおかれ、五人の職員体制で臨検が開始された。さらに、八年八月には工場課が独立し監督体制が整えられていった。五年では、工場法は表215にみるように四六〇の工場に適用され、そのうち八割にあたる三七三工場(職工数一万三一六六人、うち女工一万一〇一九人)が「染織工場」であった。福井県では、何より織物関係工場が取締りの中心であった(大正五年『工場監督年報』)。

表215 工場法の適用(大正5〜昭和1年)

表215 工場法の適用(大正5〜昭和1年)
 つぎに、工場法違反の実態をみると、戒告件数は表215のとおり、織物工場での法定就業時間違反の件数が高い比重を占める。好況期の製品受渡期限の逼迫や電力供給時間の問題が、長時間労働や深夜就業違反をくり返し引き起こさせる要因の一つであった。このほか、学齢児童を許可を受けずに働かせる工場主も多く、違反件数は年を追って減少するものの、六年二一件、七年一一件、八年九件、十四年七件を数えていた(柳沢芙美子「『工場監督年報』にみる福井県の女性労働者の状態」『県史資料』三)。このように、工場法は、その適用範囲が職工一五人以上の工場に限られ、さらに臨検職員の不足など多くの問題点を抱えてはいたが、工場労働者を保護するうえにおいて一定の役割を果たすことになった。
 福井県の肺結核死亡率は、図63にみるように明治後期から大正期にかけて全国平均と比べかなり高い比率となっている。国や県では、大正期に入るとこの死亡率の高さの一因として、女工が多く働いていた織物工場の不衛生を指摘していた。大正七年の「第二回農村保健衛生状態実地調査」において、福井県で絹織物業の盛んな今立郡粟田部村が指定されたのもそうした理由からであった。その調査報告書である十一年の内務省衛生局『福井県今立郡粟田部村ニ於ケル農村保健衛生状態実地調査報告』には、多くの織物工場が換気や採光が不十分で「結核ノ感染ヲ容易ナラシ」めていると報告されていた。さらに、明治四十二年から大正七年の一〇年間の結核死亡者一六六人のうち職業を調査しえた七〇人の内訳は男一五人、女五五人であり、女の場合そのうち三七人が機織に従事していたとし、「結核死亡及患者ハ機業ニ関スル婦女子ニ多シ」と結論づけていた(資17 「解説」)。
図63 肺結核死亡率(人口10万人あたり、明治32〜昭和11年)

図63 肺結核死亡率(人口10万人あたり、明治32〜昭和11年)

 このような状態を改善するため、福井県では工場法施行規則第八条に該当する職工の疾患者の発見につとめるための、職工五〇人以上の工場を対象にした健康状態調査を行っていた。大正十四年の『工場監督年報』によれば、織物業では福井県織物同業組合が調査費用を計上しており、検診受検者六五三六人のうち三八四〇人の健康診断がなされていた。この診断結果には、より労働環境の悪い零細工場分が含まれておらず、全織物工場の女工の実態を表わすものではないが、それでも三八四〇人中の六六パーセントにあたる二五五一人になんらかの疾患がみつかっている。
 また、十五年の調査は、職工一〇〇人以上使用工場で行われたが、織物業では受検者二六三六人中五二パーセントにあたる一三六七人がなんらかの疾患をもち、そのうち「北陸地方に於て著しき結核性疾患」は、一・八パーセントにあたる四七人が罹患していた(名古屋控訴院『福井管内織物業の変遷と其法律的考察』)。この疾患・罹患率は県内他産業と比べけっして高率ではないが、織物業に従事する女工数が圧倒的に多いため、福井県では職工の健康に対する社会的関心が比較的高かったのである。十四年の福井県の調査は、結論として工場設備の改善に一段の考慮を払うとともに衛生に関する講習・講演会を試み、休憩・休日を利用して戸外での運動・競技・遠足等を奨励し、もっぱら職工の衛生思想の涵養普及をはかり、各自の健康保持増進を期すべきとしていた。
 このような県の指導があるということは、女工労働がきびしかったことの反映でもあった。やや時代は下るが、昭和六年(一九三一)の吉田郡森田村辻久工場での労働争議の際、一女工のつぎのような投書が『福井勤労新聞』(昭6・10・20)に掲載されていた。朝は五時に起きて支度をして工場に出掛るのが六時半です、一寸の暇もなく立ち続けて働かなければなりません、ほんとうに便所にもゆっくり行く時間がないのです……昼食で空腹に重い足を引きづって職場を出ると身も心もへとへとになってやっと名ばかりの昼食を食べに室に行くのです、昼食時間といったらたった丗分です……私達が従業を終るのは七時です、門は九時に閉られるのです、だから私達が身体でも悪い時には医者に診てもらう暇がありません、だから私達は一日休んで行くのです。一日を休んで医者へ行くということは、日給制や出来高払いで賃金を受け取っていた女工にとってはそれだけ賃金が減るということであった。さらに女工にとって高額な医療費支出を考慮するとき、医者の診察をうけることは容易なことではなかった。このように外貨獲得のための重要な一産業であり、ある意味では当時の「花形」産業であった輸出向絹織物業に従事する女工の労働条件ですら、十全なものからは程遠かったのである。



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