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 第五章 大正期の産業・経済
   第二節 絹織物業の展開
    二 大戦景気から「慢性不況」へ
      戦後恐慌から「慢性不況」へ
 大正九年(一九二〇)三月、株式市場は暴落し、大阪市場の平均株価は、二月の一八四円が、三月には一四二円、六月には九六円とほぼ半値となった。この株価崩落にはじまった恐慌は、連鎖反応を巻き起こしつつ深化していった。また、この恐慌は、日本が発端となり他国以上に深刻な不況を体験したのであるが、と同時にドイツ・フランスを除く世界的恐慌であった。そのため、絹織物業などの輸出産業にあたえた打撃はいっそう大きかった。さらに、この恐慌は、十年下半期に「中間景気」があったものの、十一年末には銀行恐慌、翌十二年九月の関東大震災にともなう震災恐慌などへと続き、「慢性不況」の様相を呈していくことになる。
 福井銀行の九年上半期の「営業報告書」は、戦後恐慌の始まりによる県下機業家の状態を「当業者ハ呆然為ス所ヲ知ラズ、殆ド休業同様ニシテ、加フルニ流言飛語ヲ放チ、人心ヲ恟々ナラシムルモノアリ、一時市況ハ暗憺タル状態ナリ」と記している。事実、福井県の織物業がこうむった打撃は大きく、「地方別ニ打撃ノ程度ヲ観ルニ、福井県ニ於ケル拡張ノ程度ハ、石川県ニ比シ急激ナリシ丈ケ深甚ナルモノアリタリ」という状態であった(『日本金融史資料』二二)。大正十年の農商務省『重要輸出品輸出状況調査』は、福井県の輸出向絹織物工場のうち、戦後恐慌により事業を縮小した工場数六六四(織機五三四三台・職工数六六一〇人)、事業休止工場数四三〇(織機三九四二台・職工数三四四四人)と県の調査を掲載している。
 このように輸出向絹織物の生産を後退させていたのは、図62の主要国別絹織物輸出額にみられるように、アメリカおよびイギリスからの需要が大きく減少したためであった。とくに、アメリカへの輸出は、八年の最盛期の約六二〇〇万円が十二年には約二一〇〇万円と三分の一近くまで落ち込んでいた(鉄道省『繭、生糸、絹織物ニ関スル調査』大正一五年)。
図62 絹織物の国別輸出額(大正8〜13年)

図62 絹織物の国別輸出額(大正8〜13年)

 福井県の絹織物産額も、八年の一億五七〇〇万円が、九年には一億九〇〇万円、十一年には七四〇〇万円と最盛期の二分の一以下となり、さらに十四年には六六〇〇万円にまで減少した(資17 第338、339表)。機業界は、大戦時の好況から一転して長くかつ深刻な不況を迎えることになった。輸出向絹織物のなかでも、図61にみられるように、羽二重の落ち込みが激しいとともに、数年間高利益をあげることができた縮緬の生産も大きく減少していた。富士絹のみが、かろうじて輸出を伸ばしていた。
 大正十一年になると、県下の織物業も「慢性不況」の状況を示しはじめ、二月には福井市の機業家が福井県織物同業組合事務所で会合し、職工賃金の一割引下げと夜業の禁止を決定した。また丸岡でも職工賃金の二割引下げを決議していた。さらに、県織物同業組合も組合員にアンケートをとり、その結果にもとづき四月中旬には二週間にわたる同盟休業を決定し、実行に移した。この盟休には精練会社も同調したが、受注状況は改善せず、七月にも春江や鯖江で同盟休業を行うなど、絹織物業の不況は深刻化していった(『大阪朝日新聞』大11・2・12、15、4・18、7・12)。また、この年には経営合理化のため前述した精練会社の合同問題が提起されていた。
 さらに十三年に入ると八月八日の『大阪朝日新聞』は、「福井市の機業界ヘトヘトに困憊」という小見出しで「絹織物は大正九年以来引続いての不況で、機業家も仲買も生糸商も羽二重商もヘトヘトに困憊して疲労その極に達し」と報じていた。事実、十一年から十四年にかけて織物製造場数は、二六四六が一六七五へと約一〇〇〇近くも減少していた(資17 第331表)。また、女工の待遇も大きく変わった。好景気時には機業家は「盆暮の二期に高価な反物、指輪または金何十円を贈」って女工争奪に備えていたが、不況が深まると県織物同業組合が「不景気につき気付は一切廃止」という申合せを行い、その旨の印刷物を各機業家に配布し、工場に掲示させていた(『大阪朝日新聞』大14・7・12)。
 しかし、大正十五年三月三十一日の『大阪朝日新聞』は、「いよいよ人絹時代」という小見出しで、絹織物検査所長のつぎのような談話を載せていた。人絹の改良進歩により、人絹物の需要が増加するは当然で、実際物によつては十分人絹で間に合ふから人絹万能時代が生まれるのも遠くはあるまい、本年はその過渡期であるから、明年になつたら或は人絹の全盛期に入るのではあるまいか
 このように福井県の絹織物業界は、「慢性不況」のなか、人絹製織にその活路を見出そうとしていたのである。



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