明治後期から大正中期の水産行政は、漁業法の改正や遠洋漁業奨励法などによる漁業生産力の発展が中心課題であった。それが、中期以降は流通制度の整備が、機船底曳網漁業の取締りや生産関連施設(冷凍・冷蔵施設)の整備とともに新たな課題となる。
漁業者と魚商の関係は、漁民が魚商から前借りや越年資金の要求などをすることもあり、漁獲物販売における力関係はどうしても魚商のほうが強かった。したがって、漁業者(漁業組合)にとって流通制度の整備とは、共同販売所を設置するということであった。しかし、漁業組合による共同販売事業は、何よりも古い慣習から抜け切れない漁業者自体の支持が得られず、また既得権をもつ魚商との対立からはかばかしい進展をみなかった。
他方、卸売価格が下がっても小売価格が下がらないという問題は、大正七年(一九一八)の米騒動前後から社会問題となっていた。福井県でも一地区一市場という施策が、行政指導のかたちで行われることとなる。また、都市への人口集中は、魚類への需要拡大をもたらし、福井県でも漁獲物が大量に京阪神地方へ移出されることとなった。そのため、地元の福井市の魚価の方が高いという現象を引き起こし、魚市場の統合問題は政治問題となっていた。(『農林水産省百年史』中、『大阪朝日新聞』大8・1・24)
福井県は大正三年(一九一四)三月の「魚市場取締規則」(県令第一一号)によって本格的に魚市場の取締りを行うことになった。そして六年には県が設置した産業調査会が、水産部の産業奨励方針として、魚市場の統一をはかること、魚市場の設備を完全にすること、取引方法を改良することを打ち出した。これをうけて県は福井市米騒動の翌月の七年九月に、福井市の魚問屋の統合をはかり、福井魚問屋株式会社を設立させた。
この県による魚市場統合の行政指導は県下全域で行われており、七年九月十五日の『大阪朝日新聞』は「福井県当局は漁業者保護の目的にて、県下各地の魚市場は一地方一箇所に合同せしむる方針にて、予て合同の奨励をしつゝあり」と報じている。さらに、種々の事情から合同が遅れていたが「先年敦賀魚市場の合同あり、今春三方郡早瀬における魚市場の合同」が成立しており、九月中には福井・武生などでも合同した魚市場の営業許可が下りる予定としている。 |