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 第五章 大正期の産業・経済
   第一節 農業・水産業の展開
    三 水産業の隆盛
      共同販売所
 県の一地区一市場の施策は、県内の最大消費地である福井市の魚市場統合をめぐっていくつかの問題を引き起こしていたが、漁獲物の水揚地では共同販売所の設置が水産組合によって行われた。
 大正八年(一九一九)九月、県水産組合代議員会は、坂井郡三国町に共同販売を設置することを決議した。「福井県水産組合共同販売所規程」によれば、三国町と雄島村の組合員は、すべての漁獲物を共同販売所で販売することが義務づけられ、また一〇〇円以上の保証金をおさめ、二人の保証人があり組長が承認した場合はだれでも競売者となれた。販売所での取引きは現金を原則としたが、販売者には月三回に分けての支払いが、買受者には月二回ののべ払いが認められていた。買受者がこの規則どおり代金を完納した場合には買受金の一〇〇分の二を奨励金として交付するとされているが、九年の予算では奨励金は一〇〇分の三と増加しており、販売所は買受者からの代金回収が大きな問題であったと思われる(『福井県水産組合報』三一・三二・三七、『大阪朝日新聞』大8・9・18)。
 「大正八年度三国共同販売所収入支出決算」によれば、一万五〇〇〇円の借入金がなされ、手数料収入が約五〇〇〇円であることから、同年で約五万七〇〇〇円の売買があった。翌九年は、『福井県水産組合報』によって判明する七か月分の販売高は約一七万円であり、年間約二九万円の売買があったことになる。しかし、同年の坂井郡の水産物価額は約七六万円であり、約五〇万円近くの水産物は共同販売所で取扱われなかったことになる(『県統計書』)。魚商の攻勢が強く、一時期は魚問屋に業務委託をせざるをえなかったと『福井県水産界史』は記している。事実、十二、十三年の三国共同販売所の予算は、販売高を二七万円としており、またこの二年の坂井郡の水産物価額が一三四万円、一三〇万円であることからも、販売所の経営はけっして順調ではなかった。
 このような状況に対して、県水産試験場の場長であった野村などの指導もあり、十四年には仲買業者との間に協定ができた。その結果、三国共同販売所は昭和元、二年の予算で販売高を五八万円と見込むまでになり、経営も比較的順調となっていったのである。
 この漁獲物の水揚地での共同販売所設置は、水産試験場などの行政指導もあったが、三国以外では難航した。小浜では、昭和三年十二月に水産組合小浜共同販売所を強引に設置したが、既存の小浜水産株式会社との競争は激烈をきわめ、西津以外の漁業組合は販売所へは漁獲物を持ち込まなくなっていた。この状況を打開したのが福井県水産会であり、五年六月、四万五〇〇〇円で小浜水産株式会社を買収し、共同販売所での経営は、ようやく軌道にのったのである。また、敦賀では小浜より以前から共同販売所設置の動きがあったが、敦賀水産株式会社の勢力が強く、敦賀共同販売所が設置されたのは、昭和十五年七月であった。
 また、漁業組合も共同販売をめざすところがふえ、大正十四年では一一組合が共同販売事業を行っていた。このように、大正中ごろから水産組合や漁業組合は、漁獲の面だけでなく、共同販売による漁業者の利益の確保に力を注ぐようになった。そのためには、漁業者と魚商との間に長年にわたって培われてきた資金をめぐる従属関係の打破が必要であったため、共同販売所の設置は難航をきわめた。水揚地での共同販売所方式が、県下に広く普及するためには昭和戦後を待たなければならなかった。



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