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 第五章 大正期の産業a経済
   第一節 農業a水産業の展開
    三 水産業の隆盛
      水産試験場a水産加工業
 福井県では、明治三十二年(一八九九)にわが国最初の水産学校(三十四年に県立小浜水産学校と改称)が設置されたが、地方の漁業発達をつねにリードしてきたといわれる水産試験場の設置は他府県と比べかなり遅かった。水産試験場は、愛知県の二十七年設置をはじめとして、四十五年には二五府県に置かれていたが、福井県では大正九年四月にようやく県庁内に設置された(告示第七三号)。同試験場は前年の八年に県水産技師に着任していた東京大学出身の野村貫一が場長となり、漁撈a製造a養殖の三部(のち調査部を含め四部)に分け技師一人a技手五人a書記一人で発足し、試験船二州丸(一三トン)によって海洋調査や漁撈試験が行われた(訓令第一二号)。また、翌十年には製造a養殖の専任技手が置かれ、さらに十二年の通常県会で建議案が可決され、議長より知事に「沖合漁業指導船建造に関する意見書」が提出された。翌十三年には六〇トン一〇〇馬力の指導船福井丸の予算七万三〇〇〇円が計上され十四年に竣工した(『福井新聞』大13a11a26)。創立時の九年から十四年までに水産試験場が行った事業は、表209のような広範なものであるが、またこの時期は福井県の水産行政が本格化した時期でもあった。なお、水産試験場が敦賀に設置されたのは昭和十三年であり、経済部に水産課が設置されたのは十五年であった。

表209 福井県水産試験場の事業概要(大正9〜14年)

表209 福井県水産試験場の事業概要(大正9〜14年)
 水産加工業は、図54のように明治末期から漁獲量の増加にともない、塩製および乾製加工物の生産が増加する。ただ三国を除くと越前海岸の漁業は、北陸線への連絡が悪く、大都市への輸送コストがつねに問題となっていた。そのなかで敦賀は良港をもち早くに鉄道が敷設されたため、昆布と練物の加工業が発達した。昆布は大正七年で六加工工場があった。また練物のカマボコ製造業は十四年で一六製造業者が八万円の生産量をあげており、そのうちの七割が滋賀県や大阪府へ移出されていた(『福井県水産会報』四二)。なお、図54は、缶詰の生産額を含まないが、昭和三年で丹生郡に六、福井市に三、坂井郡に一の缶詰工場があった(『福井県水産要覧』昭和四年)。
図54 水産製造物価額(明治38〜昭和3年)

図54 水産製造物価額(明治38〜昭和3年)




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