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 第五章 大正期の産業・経済
   第一節 農業・水産業の展開
    三 水産業の隆盛
      漁船の動力化
 福井県の漁業は、とくに若狭湾が日本海側における唯一のリアス式海岸であることもあって沿岸漁業への依存度はきわめて高かった。図52に明らかなように、その傾向は、全国的には大正期に入ると沖合または遠洋漁業への進出が目立つようになるなかでも、依然として続いていた。大正九年(一九二〇)においても沿岸漁業が全漁獲金額に占める割合が、全国平均で八五・七パーセントであったのに対して、福井県では九八・〇パーセントにも達しており、沿岸漁業中心の福井県では、大正中ごろまで動力船の導入は本格化しなかったのである。
図52 沿岸漁業獲高の総漁獲高に占める割合(大正4〜昭和4年)

図52 沿岸漁業獲高の総漁獲高に占める割合(大正4〜昭和4年)

 福井県の沿岸・沖合漁業における発動機船は、明治四十四年(一九一一)に敦賀郡松原村縄間に、同村信用組合からの一二〇〇円の借入によって共同所有のかたちで導入されたのが最初とされている。この石油発動機船の導入は「沖合遠く出漁せしに漁利昔日の三倍」の好成績をおさめたとされている(『福井県水産組合報』六)。しかし、その後発動機船(共同所有または漁業組合所有が中心)は徐々にしか増加せず、大正九年(一九二〇)にいたってもわずか三二隻を数えるにすぎなかった。
 その第一の理由は、発動機船の建造費が巨額であったことである。同九年には一四隻の発動機船が新造されているが、その価格総額は一〇万六〇〇〇円であり、一隻あたり平均船価は七五七一円であった(『県統計書』)。したがって、発動機船の個人所有は、一般漁民にとっては不可能であったといっても過言ではなく、また沿岸漁業が順調なあいだは、なかなかその導入条件が整わなかった。
 第二には、導入に巨額な資金を必要としたにもかかわらず、この段階の発動機船が技術的に未完成であったことである。しばしば機関の故障が起こったとともに、発動機が有水式のため大量の真水を積み込む必要があり航行距離が著しく限定されていたのである。また、石油発動機の燃料が灯油または軽油であり燃料代が高かったことも発動機船導入をさまたげていた要因の一つであった。
 ところが、七年の「遠洋漁業奨励法」の改正により、発動機船導入に対する奨励策が大型船から小型船に転換されて奨励補助金額も多くなり、小型発動機船導入の条件が整ってきていた。また、このころには無水式発動機・ディーゼル発動機の発明によって発動機船の技術改良も進んでいた。こうした政策的・技術的条件が整うなか、大正中期から停滞傾向をみせていた沿岸漁業の漁獲量が十年から減少しはじめ、十一年には最盛期の漁獲量に対して約三五パーセントの、漁獲金額でも約二二パーセントの減少となったことが、一気に小型発動機船の導入を進行させる要因となったと考えられる。
 このような小型発動機船の導入による沖合漁業の進展を、漁獲金額からみたのが図53である。沖合漁業は、最初若狭湾沿いの敦賀・遠敷郡で試行されはじめ、急速に漁獲高の増加した十一年には坂井郡でも本格的に開始される。そして十三年以降は嶺南四郡の沖合漁業の比重が低下するなか、昭和二年には坂井郡が全体の約八割を占めるまでになっていた。また、図53では十二年以降嶺南諸郡の沖合漁獲金額の減少を示すが、これは十一、十二年と沖合漁業に導入された小型発動機船が、大正末からは沿岸漁業に使用されたことを推測させる。それとともに、福井県の沖合漁業が全体としても発展しなかったのは、九州地方のように近くに東シナ海や黄海のような魚類の豊富で大規模な大陸棚がなかったことが大きな理由であろう。なお、この時期、丹生郡と南条郡の沖合漁業が発展しなかったのは、坂井郡の三国港のような適当な繋留場がなかったためと考えられる。
図53 沖合漁業漁獲高(大正7〜昭和3年)

図53 沖合漁業漁獲高(大正7〜昭和3年)

 大正後期から昭和初期にかけて、沖合漁業の中心であった機船底曳網漁業は、広範囲な漁場を強力な馬力で網を曳く、漁獲効率の高い漁法であった。このため、旧来の無動力船による手繰網や打瀬網の漁業者と機船底曳網漁業者との間に紛擾が生じることになった。県は紛擾海域に二州丸などに警察官を乗船させて巡視させるとともに、十年九月一日に「機船底曳網漁業取締規則」(県令第六一号)を施行して、操業区域や漁期を制限して両者の利害を調整しようとした。しかし、多額な建造費用を必要とする発動機船の普及は、資金力に乏しい小漁業者を没落させる要因となり、漁業従事者数を減少させていった。



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