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 第五章 大正期の産業・経済
   第一節 農業・水産業の展開
    二 地主制の後退
      農会の農政活動
 県農会を中核とする系統農会は、すでに明治末期までに、県下一円に組織されたが、その基本的性格は、前述のとおり、官僚と地主層の結合の拠点として機能するものであった。
 ところで、明治末期にはじまる深刻な農業不況が、大正初年に及ぶと、県下の地主層は、負担軽減を求めて、活発な農政活動を開始する。その皮切りとして、大正三年(一九一四)三月、幹事の山田斂・青山荘・森広三郎らの大地主の主唱で、「福井県農政倶楽部」(事務所は県農会内)と銘打った農業団体が成立する。その正会員には、池田七郎兵衛(足羽郡酒生村荒木新保)を筆頭に、各郡下のおもだった地主がほとんど名を連ねる(資11 二―一〇)。「農業ノ振興発展ヲ計ル」(会則第一条)ことを目的としながらも、経費はすべて、これらの地主の拠出金によって賄われる点からみて、地主層の利益をはかるのを第一義とし、県農会の別働隊としての性格を帯びることとなる。
 県農政倶楽部は、帝国農会のきもいりで結成された中央農政倶楽部や、他府県の地方農政運動機関とも連繋して、地租軽減運動を行ったが、同年八月の第一次世界大戦の勃発により、この運動はいったん中止せざるをえなかった。ところが一方、同年の全国的な豊作に加え、朝鮮米の移入などにより、米価の低落が激しくなると、米価問題が俎上にのぼった。そこで、県農会と県農政倶楽部は共同歩調で、政府に対して、しばしば米価調節の陳情を行ったのである。
 しかし、五年に入ると、大戦景気にともなう高米価時代に一変し、ついに七年には、全国各地で米騒動が続発するありさまとなった。政府は、米価抑制をはかるため、「米穀の輸出制限」(大正七年四月十五日)、「外米管理令及び同規則」公布(同年四月二十五日)、「穀物収用令」公布(同年八月十六日)などの矢つぎ早の米価抑制政策を打ち出したが、系統農会や地方農政倶楽部は逆に、米価抑制反対の強力な農政活動を展開したのである(栗原百寿『農業団体論』)。
 この際、県農政倶楽部も、七年十月二十六日の総会で、「米籾輸入税否撤廃建議書」を決議した。そのなかで、「米価騰貴ト雖是唯最近諸物価ノ騰貴ニ伴フニ過キズ、物価ノ調節ヲ為サスシテ、単ニ米価ノミノ低落ヲ計画スルカ如キハ、消費者ノミヲ顧慮シテ農業ノ利益ヲ無視スルモナリ、殊ニ米籾輸入税ノ如キハ外国農業ト内地農業トノ競争ヲ緩和スル最モ緊要ナル鍵鑰ナルニ拘ハラス、一時的米価騰貴ノ為メ俄ニ此関門ヲ撤廃セントスルカ如キハ、実ニ誤レルノ甚シキモノト謂ハサル可カラス」と力説し、米籾輸入税の撤廃には断固反対すると訴える。そして建議書を、幹事の山田斂はじめ三人が連名で、総理、大蔵・農商務両大臣あて提出したのである(森広三郎家文書)。
 ところが、大戦後の「一九二〇年恐慌」による米価の暴落に見舞われると、九年十二月十六日の県農会と県農政倶楽部の合同協議会で、「近時米価激落し、生産費をも償ひ能はざるの悲境に陥りたり、若し此侭にして推移せんか、農村の疲弊困憊は云ふに及ばず、延て農生産の減退を誘致し、国民食糧の欠陥を大ならしむる虞れなきを保し難し、吾人は此際黙視するの秋に非らざるを信じ、左記事項の実行を期す」との決議文を採択した。そして、「農家自衛の方策」として、投売を防止すること、生活費の緊縮をはかること、の二点をあげ、つぎに「政府へ要望の事項」に、米の買上げを実行すること、常平倉を急設し国民生活の安定につとめること、の二項目を掲げ、政府に建言書を差し出した(『福井県農会史』、『大阪朝日新聞』大9・12・16)。
 こうした県農会や県農政倶楽部の農政活動は、大正中期以降の地主制の後退過程のもとで、しかも大戦後の農村不況が深化するなかにあって、「農家自衛の方策」を強く県下農民諸階層に訴えるにしても、真実は、「地主自衛」の偽らざるねらいが秘められていたとみなければならない。



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