目次へ 前ページへ 次ページへ


 第五章 大正期の産業・経済
   第一節 農業・水産業の展開
    一 農家経済の起伏
      自・小作農の動向
 第一次世界大戦後の「一九二〇年恐慌」を契機とするきびしい社会経済情勢下で、越前の自作・自小作・小作の農民諸階層が、それぞれどのように対応したかについて、彼らの農家経済の実態に照明をあててみたい。
 京都大学農学部農業簿記研究施設文書には、福井県下の三地域の自作・自小作・小作の三階層の九農家について、大正十年(一九二一)、十一年、十三年の三か年の農家経済調査成績カードが残存している。具体的には、市街地付近農村として足羽郡東安居村(福井市)、平坦地農村として坂井郡伊井村(金津町)、山附農村として吉田郡上志比村が対象となっていた。
 まず表200において、東安居村では、A(自作)・D(自小作)・G(小作)、伊井村では、B(自作)・E(自小作)・H(小作)、上志比村では、C(自作)・F(自小作)・I(小作)の計九戸の田畑など農地の所有・借入状況が判明する。

表200 農家経済調査対象農家の所有・経営規模(大正11年)

表200 農家経済調査対象農家の所有・経営規模(大正11年)
 自作、自小作、小作の農家経済収支状況は、表201・202・203のとおりである。まず自作農につき(表201)、十年の収支差引高(農家経済余剰)をみると、家計費のなかに家事用固定資本減価額を含めたもの1も、同費を含めない2のいずれもが、A・B・Cの順にかなりの黒字となる。さらに十一、十三年の収支差引高をみると、C(十一年)を除き、A・Bの順に、やはり黒字計算となる。とりわけAの場合、たとえば十一年の農業生産物販売額は二三一〇円にのぼり、このうち玄米販売額は一一一七円(四三石七斗)、畑作(蔬菜類)販売額は一一八五円など、かなりの商品生産を行っていることがわかる。

表201 自作農の農家経済収支状況

表201 自作農の農家経済収支状況


表202 自小作農の農家経済収支状況

表202 自小作農の農家経済収支状況


表203 小作農の農家経済収支状況

表203 小作農の農家経済収支状況
 つぎに自小作農では(表202)、十年の収支差引高をみると、Fの欠損を除き、D・Eの順に黒字となる。十一、十三年については、F(十一年)の欠損を除き、Eは12ともに、またDは2だけでみれば黒字計算となる。しかしDの1では、両年とも欠損が出る。この点は、家計費の冠婚葬祭費(十三年は長女の結婚等による)の臨時的な大幅支出にともなうもので、こうした出費を除外すれば、2のとおり、両年ともかなりの黒字が見込まれる。とくにDの場合、十一年の玄米販売額は一〇〇〇円(三六石一斗)、十三年の販売額は九五九円の相当額にのぼるが、一方小作料で、それぞれ一一七円、四二二円(うち金納一六円)を支出するため、小作料をそれぞれ半額程度に減額すれば、前述の家計費にかなりの臨時費を含めても、収支差引の赤字は、ごく僅少となる勘定である。
 さらに小作農の場合(表203)、十年では、G・Hの順に収支差引高が黒字となるが、翌十一年では、G・H・Iとも、若干の赤字を出し、ついで十三年には、G・Hともに黒字計算となる。この点は、十一年で、Gの玄米販売額が、自家消費高(三五一円)を上回る四六四円(一四石四斗)にのぼるにもかかわらず、小作料六五八円の過重負担となるのが、収支欠損を決定的にしていた。またHの場合も、玄米販売額が自家消費高(二七七円)を大幅に上回る四四三円(一四石八斗)にのぼるにもかかわらず、小作料三三五円の支出により、若干の収支赤字となっている。
 以上のとおり、大正後期の農村社会で、「一九二〇年恐慌」後にあっても、計九戸の農家経済からみて、自作農はもちろん、中層どころの自小作・小作農が、米穀など諸物産の販売者として、小商品生産者化することにより、恐慌を回避・克服するのに懸命となっていることがわかる。とくに自小作・小作農の場合、米穀を少しでも有利に販売できるように、品種の改良、品質の統一、労働力の集約的投下に力を入れるにもかかわらず、現物高額小作料の支出により、年度によっては、かなりの収支欠損を出さざるをえなくなる。
 また自小作・小作農が、かなりの収支黒字計算となる場合にしても、農業経営費に含まれる「労賃」を、できるだけ切り詰めた金額にとどめるなど、彼らが、本来「労働報酬」として取得すべき「労賃」を、ほとんど無償化することにより、つまり、自家労働の「自己搾取」により、かろうじて「農民的余剰」が確保できたものとみなければならない(三上一夫『日本農村社会近代化の軌跡』)。
 じつは、日本農民組合福井県連合会が、昭和二年六月に成立するが、日農当初の重要な闘争方針である小作料三割減額要求は、「利潤」は保証されなくても、農業生産労働に対する賃銀報酬は当然の理であるとの主張によるものであった。当時全国的に、各地方での「小作収支計算」の報告がみられるが、表204は、南条郡神山村行松(武生市)の一小作人の報告として、作成されたものである。この際、生産労働にかかわるものは、すべて労賃に見積って計上するが、当時の一般日雇労働者の賃銀なみ、ないしそれ以下に低くおさえている。そこで、日農の要求どおり、小作料(四六円)を三割減としても、なおかつ赤字であり、収支欠損をなくすためには、小作料を約五五パーセント減の二〇円にせねばならない。
 また、日本農民組合の今立郡北日野村小野谷支部(武生市)の「小作地一反歩収支対照表」(十四年、平均率)において、小作料率六割で、差引損失が三三円となる(「福井県日農全農関係資料」)。そのため、小作料率を一割以下に大幅に減額して、はじめて収支のバランスがとれるが、この際、「労賃」をいっさい無償化すれば、六割の小作料率であっても、逆に差引一三円の黒字計算となる。事実、「労賃」の最大限の切詰めにより、かろうじて「農民的余剰」を確保したとみてよい。

表204 水田1反歩耕作損益計算表(南条郡神山村行松、昭和2年)

表204 水田1反歩耕作損益計算表(南条郡神山村行松、昭和2年)
 こうして、大正後期になると、福井県下でも、地主制下のさまざまな矛盾打開のため、ようやく小商品生産者化した自小作・小作農の主導による小作争議が活発化し、昭和初期にかけて一段と高揚するのである。



目次へ 前ページへ 次ページへ