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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第四節 新しい教育と社会事業
     二 社会事業の推進
      農村問題へ
 都市への人口流入は、同時に農村の、とりわけ青年層の都市への流出を意味していた。都市部での賃金の上昇は、停滞する小作収益との格差を広げ、福井県でも大正十年以降昭和初期まで小作争議が高揚する。都市部で上水道・塵芥焼却場などの都市施設の整備や、公園・公会堂・教育施設などの建設が一定程度すすむと、政策のうえでも、農村と都市の格差がより顕著になってきた。
 大正七年(一九一八)八月に創刊された『教育と自治』は、『福井県教育』を引き継ぎ、福井県教育会と福井県自治協会が共同で刊行した雑誌であるが、この第一巻第四号では、今立郡役所職員が「農村研究会の成立を望む」と題して論説を寄せていた。ここでは、「今日の農村は都会に比して都会と平等の保護を受けつゝありや」と問い、「要するに諸般の保護施設は今日都会にのみ甚だ厚くして農村に対しては甚だ薄き有様なり」として、「農村社会政策」の確立を提言していた。
 このような議論にもかかわらず、三方郡八村などの一部の模範的な農村を除けば、農村部の社会事業が広く行われるのは、戦時体制下に入ってからであった。ただ、この時期の農村部でも、医療を中心に施策が開始されていた。福井県では、明治三十年代から四十年代にかけて結核死亡率が急速に上昇しており、大正五年四月には「福井県結核予防会」が設立されていた(資17 「解説」)。同時に、乳幼児や妊産婦の死亡も注目され、医療施設がない農村部を中心に、公費で産婆を設置する動きがでてくる。
 大正七年の丹生郡では、郡が奨励して数村で村営の産婆が設けられた(『教育と自治』第一巻第一号)。十二年四月には、五七町村で町村営の産婆が設置され、とくに坂井郡では一九村と全町村の六割の町村に普及していた(『福井県社会事業概要』大正一三年)。坂井郡では、「社会状態を調査し其の改善を図る」機関として、十二年に「方面委員」を設けていたが、方面委員制度が県下の農村部に普及するのは、昭和七年の「救護法」の施行をまたねばならなかった。



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