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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第四節 新しい教育と社会事業
     二 社会事業の推進
      職業紹介所
 口入屋などの営利を目的とした職業紹介に対する規制は、福井県では明治二十八年(一八九五)の県令二八号「雇人口入営業取締規則」で、県内の営業者は営業許可が必要とされた。また、営利業者や募集人が、県外から職工を集団的に募集する事態に対応して、県外の営業者に対しても、三十年の県令七二号で、県の営業許可が必要となった。
 このように各府県ごとに行われていた規制は、第一次世界大戦がもたらした労働力需要のなかで、法的な整備をともなって全国的に行われるようになる。大正八年(一九一九)三月には、救済事業調査会が「失業保護ニ関スル施設要綱」を答申し、おりしも、同年にワシントンで開かれた第一回「国際労働機関(ILO)」総会で、公益職業紹介所施設の増設と営利紹介所の全廃を内容とする失業に関する条約・勧告が決定されたことによって、国際的な労働基準にあわせた政策の調整が必要となっていた。こうして十年七月、「職業紹介法」が施行された。同法では、事業は国の事務であるが、経費は市町村負担とされ、職業紹介の無料主義の原則が明らかにされた。一方、営利職業紹介は全面的には禁止されず、その営業と新規開業を規制した「営利職業紹介事業取締規則」が、昭和二年から施行された。また、各府県の労働者募集取締規則を統一する内務省令「労働者募集取締令」が、大正十四年に施行された。
 福井県では、すでに県警察部が大正九年(一九二〇)九月から相談紹介部を設置し、住宅や雇用に関する相談とともに、職業紹介を実施していた。また、同月から僧侶を中心とする民間の社会事業団体である「社会事業研究会」が、福井市佐桂枝下町で「福井職業紹介所」を開設した。
 十年七月に職業紹介法が施行されると、市町村による公設、無料が原則とされたため、県警察部の相談紹介部は閉鎖され、社会事業研究会による職業紹介所は、職業紹介法により認可を受けて事業を続けたが、十二年一月には閉鎖された。かわって、同月から福井市営の「福井職業紹介所」が、駅前の日ノ出下町に新築した三階建の建物で事業を開始した(『福井県社会事業概要』大正一三年、『大阪朝日新聞』大12・2・11)。 写真156 日ノ出公設市場

写真156 日ノ出公設市場

 福井職業紹介所には、求職者のなかで一時宿泊を必要とする者があることから、開設五か月後の十二年六月には「福井市共同宿泊所」が付設され、同時に「福井市公衆食堂」「法律相談所」が開設された。さらに昭和八年(一九三三)には授産部が設けられた。福井職業紹介所は、当時の所長の伝記によれば「一階には公衆食堂、二階が事務所と婦人に対する縫製技術の補導室、三階に共同宿泊所を設置するほか無料法律相談所なども併置」した施設であり、単なる職業紹介施設としてではなく、市内の社会事業のセンターを意図していたと思われる(『松島格太郎』)。東京市や大阪市の職業紹介所では、設立当初から職業紹介以外の労働者(失業者)保護事業があわせて行われており、福井職業紹介所はこうした先駆的な事例を参考とした施設であった。
 公設職業紹介所は、昭和六年まで福井市におかれるのみであったが、これ以降十年までに七か所(大野町、南条郡河野村、勝山町、敦賀町、坂井郡棗村、武生町)に設置された(『福井地方に於ける繊維工業に就いて』福井職業紹介所)。これらの職業紹介所は、職業紹介法の改正により十三年に国営に移管される。
 職業紹介所の年間求人・求職者は、大正十三年でそれぞれ約二五〇〇人、一八〇〇人、うち就職者は八〇七人であった(資17 第635表)。求人・求職者は、昭和期に入ると、ともに急増し、それにともなって就職者も昭和五年三五六五人、十年九九六三人と増加した。求職者中の就職者は、大正十四年の三九パーセントがもっとも低く、昭和四年まで四割台であったが、五年以降六〜八割と好転した。この割合は、全国的には、昭和初期で三割を下回り、国営移管直前のもっとも高い時でも、四六パーセントであったのに比べると、高い値といえるだろう(『労働行政史』一)。なお、男女比では全国的に求人・求職・就職ともに、女子が少なく、福井県でも女子の就職者は、全体の二〜三割にすぎなかった。
 



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