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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第四節 新しい教育と社会事業
     二 社会事業の推進
      公設市場・市営住宅
 「福井市改良事業調査会」の議論では、具体的には、上水道敷設、小学校増設、公設市場の設置が取り上げられた。良質な井戸水がえられない福井市では、加えて大正六年(一九一七)から八年にかけて、焼失戸数が一〇〇戸をこえる大規模な火災が、五件も続いていた。このため水道の敷設は、防火上衛生上でも不可欠となっており、優先順位のもっとも高い施策であった。水道事業については、七年十月から調査が開始され、翌八年十月に市議会で、九年度から四か年計画で敷設することが可決された(『福井市史』資料編一一)。
 水道事業に続いて、議論になったのは、公設市場・市営住宅の設置であった。公設市場については、直接には米騒動の際の、救済のための皇室からの下賜金や寄附金の残金二万五〇〇〇円を、食料品の廉売を目的とした公設市場に利用しようとしたことに、端を発していたという(『大阪朝日新聞』大8・2・15)。
 また、第一次世界大戦下の都市の住宅難と家賃の高騰は、全国的にみられ、さらに福井市では、大規模な火災が市内の住宅難に拍車をかけていた。火災を恐れて、貸家の建設も進まなかった。
 公設市場・公設住宅の設置については、前述の「救済事業調査会」の七年十一月の答申で奨励され、さらに十年十一月には、公設住宅資金の低利融資が通牒された。また逓信省からも簡易保険積立金から低利融資が行われた。これに対して各道府県の対応は早く、公設市場は九年で二六〇か所、公設住宅は建築中のものを含めて、十年十一月には四一道府県で、約一万戸が設置されつつあった(『内務省史』三、本間義人『内務省住宅政策の教訓』)。
 福井市当局は、大蔵省と逓信省からの一〇万円の借入によって、公設市場と市営住宅の建設を市議会にはかった。しかし、市議会では「公設市場を設けたりとて、小売値段の標準を作り、物価の昂騰を防ぐが如き事は到底不可能」とその効果を疑問視する意見もあり、調査委員を設けることになった(『大阪朝日新聞』大9・2・20)。これに、戦後恐慌による物価の下落が重なり、公設市場は九年十二月に福井城のお堀の埋立地(日ノ出下町)に一か所開設されたものの、これ以外の設置計画に進展はみられなかった。こうしたなかで、十年六月には、不当な家賃の値上げに反対する「福井市第五区毛矢町借家人同盟組合」が結成され、市営住宅の早期建設を求めて、市に請願を行う動きもみられた(資11 一―三六六、三六七)。
写真156 日ノ出公設市場

写真156 日ノ出公設市場

 こうして市営住宅は翌年三月、ようやく着工し、十月に三四戸が竣工した。公設市場も前年の十月に神明、翌十一年七月に木田、九月に立矢、十二年五月に宝永の四か所が開設された(大正一三年『福井市統計一斑』)。福井市以外では、武生町、敦賀町、勝山町、三方郡八村、丹生郡四ケ浦村などに設置されたが、昭和期に入っても継続的に維持されたのは、福井市の二市場と敦賀市の一市場であった(『福井県社会事業要覧』昭和一五年)。
 公設住宅については、県内ではほかに鯖江町が、九年一月から一二戸の公設住宅を設置していた。昭和八年(一九三三)には、これ以外に勝山町、丸岡町、粟田部町、今立郡神明村、坂井郡春江村にも設置され、県下の公営住宅戸数は、一六二戸となった(『福井県勢概要』昭和八年)。また、大正十年の「住宅組合法」にもとづいて、住宅の建設、購入のための互助組織として「住宅組合」が設立され、大蔵省預金部から県を通じて低利融資があった。昭和元年には、二〇組合(うち福井市一三、鯖江町三、敦賀町二)、一八八一人が組合員となっていた(『福井県社会事業概要』昭和二年)。



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