目次へ 前ページへ 次ページへ


 第四章 大正デモクラシーと県民
   第四節 新しい教育と社会事業
     二 社会事業の推進
      社会事業の開始
 福井市では、公営事業としてガス事業を、すでに明治四十五年(一九一二)三月から開始していた。都市化の進展とともに、大正七年度予算には、上水道・塵芥焼却場・火葬場などの都市施設や、足羽川の橋梁増加、公園・公会堂・教育施設の整備などを調査・検討するために、調査会の設置がもり込まれた(『大阪朝日新聞』大7・1・18)。同年七月、福井市議会は「福井市改良事業調査会規程」を可決した。
 さらに、翌八月の福井市内での米騒動の勃発は、当初、議論にのぼっていた都市計画・都市施設と同等に、あるいはより高い優先順位で、種々の社会事業を急速に具体化させることになった。
 同調査会には、市議会議員に加えて、県内務部長・警察部長、商業会議所会頭、福井銀行頭取、福井県絹織物同業組合長、福井高等小学校長などの県幹部や経済界・教育界の代表三〇人が、会員として委嘱された(『教育と自治』第一巻第三号)。米騒動の翌月の九月十七日にもたれた第一回の会合では、上下水道・火葬場・墓地・塵芥焼却場などの都市施設の整備とともに、「防貧救貧上」・「労働紹介幼児委託」施設が調査項目にあげられた(『大阪朝日新聞』大7・9・19)。
 このように米騒動を直接の契機として、全国的にも公設市場、市営住宅、職業紹介所、公衆食堂、共同宿泊所といった社会事業が、都市部を中心に実現されることになる。内務省では、七年六月に設置された「救済事業調査会」が、八年にかけて、小売市場の設置、住宅改良、失業者保護、労資協調施設、児童保護について、それぞれ答申を行い、これにもとづいた行政指導が開始されていた(『内務省史』三)。
 これに対応して行政機構も改編され、内務省では八年十一月に地方局救護課が社会課と改められ、九年八月には社会局がおかれ、十年一月には「救済事業調査会」にかわって「社会事業調査会」が設置された。福井県でも、八年十月に「社会の改良救済に関する思想の普及、斯業の奨励助成」を目的として、県庁内に事務所をおく「福井県救済改良協会」が設立され、十一年五月には内務部に社会課がおかれた(『教育と自治』第二巻第一一号、『大阪朝日新聞』大11・5・4)。福井市でも八年には第一課に社会係がおかれており、十年に教育社会課となった(『稿本福井市史』上)。



目次へ 前ページへ 次ページへ