大正五年(一九一六)九月、最初の労働者保護法である「工場法」(明治四十四年制定)が施行された。ここでは、原則として女子と一五歳未満者の一日一二時間をこえる労働の禁止、深夜業(午後一〇時から四時)の禁止、休日・休憩時間の規定などが設けられた。
工場法の制定は、すでに明治二十年代から政策課題にのぼっていたが、雇用主側の反対によって容易には成立せず、ようやく大正五年に施行された工場法も、就業時間や深夜業の規制に対して、猶予期間が設けられていた。たとえば、就業時間は、福井県のような輸出向絹織物業や機械製糸業においては、施行後五年間は二時間、その後一〇年間は一時間延長することが認められた(「工場法施行規則」)。
このような猶予期間を設けながらも、工場法が成立した背景には、日露戦争後、労働問題が社会問題として、階層をこえて意識されてきたことがあげられよう。同時に、この労働問題は、都市化をめぐる問題と表裏一体であった。二十世紀に入ると、東京・大阪・京都・名古屋・神戸・横浜の六大都市を中心に都市化が急速に進展し、それ以外でも産業都市が出現し、「都市問題」が叫ばれるようになった。
福井県の場合、他の北陸地域と同様に、明治前期から人口の流出が大きく、県全体としては、都市への人口供給地域であった。大正九年の第一回国勢調査からえられる福井県の流出率(県内出生者に占める他府県現住者の百分比)は、二三パーセントに及び、全国では第五位と高い位置にあった(伊藤繁「人口増加・都市化・就業構造」『日本経済史』五)。福井県出生者の転出先としては、北海道がもっとも多く、ついで大阪府、東京府、京都府と大都市が続く(表199)。これは、ストック的な数値であるが、北海道移住を除けば、関西圏への転出の比重が高い。それとともに、東京への転出も大正期半ばにすでに、関西圏につぐ位置にあったことがわかる。 |