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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第四節 新しい教育と社会事業
     二 社会事業の推進
      農村のなかの都市
 大正五年(一九一六)九月、最初の労働者保護法である「工場法」(明治四十四年制定)が施行された。ここでは、原則として女子と一五歳未満者の一日一二時間をこえる労働の禁止、深夜業(午後一〇時から四時)の禁止、休日・休憩時間の規定などが設けられた。
 工場法の制定は、すでに明治二十年代から政策課題にのぼっていたが、雇用主側の反対によって容易には成立せず、ようやく大正五年に施行された工場法も、就業時間や深夜業の規制に対して、猶予期間が設けられていた。たとえば、就業時間は、福井県のような輸出向絹織物業や機械製糸業においては、施行後五年間は二時間、その後一〇年間は一時間延長することが認められた(「工場法施行規則」)。
 このような猶予期間を設けながらも、工場法が成立した背景には、日露戦争後、労働問題が社会問題として、階層をこえて意識されてきたことがあげられよう。同時に、この労働問題は、都市化をめぐる問題と表裏一体であった。二十世紀に入ると、東京・大阪・京都・名古屋・神戸・横浜の六大都市を中心に都市化が急速に進展し、それ以外でも産業都市が出現し、「都市問題」が叫ばれるようになった。
 福井県の場合、他の北陸地域と同様に、明治前期から人口の流出が大きく、県全体としては、都市への人口供給地域であった。大正九年の第一回国勢調査からえられる福井県の流出率(県内出生者に占める他府県現住者の百分比)は、二三パーセントに及び、全国では第五位と高い位置にあった(伊藤繁「人口増加・都市化・就業構造」『日本経済史』五)。福井県出生者の転出先としては、北海道がもっとも多く、ついで大阪府、東京府、京都府と大都市が続く(表199)。これは、ストック的な数値であるが、北海道移住を除けば、関西圏への転出の比重が高い。それとともに、東京への転出も大正期半ばにすでに、関西圏につぐ位置にあったことがわかる。

表199 福井県出生者の現住県(大正9年)

表199 福井県出生者の現住県(大正9年)
 なお、北海道移住については、大正九年の各府県の出生者に占める北海道現住者の割合をみると、福井県は全国でも第六位と高かった。しかし、福井県から北海道への転出は、明治三十年前後にピークがあり、大正期に入ってからは、急速に減少していた(資17 「解説」)。
 こうした県全体の動きと異なった傾向にあったのは、福井市であった。明治四十年代以降大正期半ばにかけての福井県の趨勢をみると、出寄留(転出)が入寄留(転入)の二〜三倍になっていた。寄留人口は、出寄留人口でとくに届出もれによる誤差が大きく、実際には、これをさらに上回る出寄留があったと考えられる。しかし郡市別にみると、福井市のみが逆に入寄留が出寄留を上回っていた。明治三十一年でほぼ同数であった福井市の入・出寄留は、大正期に入ると、入寄留が、出寄留を上回るようになる。「寄留法」の施行を機に寄留簿の整理が行われた大正五年では、出寄留七一一〇人に対して入寄留一万一八八四人と、入寄留が四八〇〇人ほど超過していた。そして、この入寄留の六〜七割が県内からの転入であった。たとえば八年では、福井市の入寄留約一万五四〇〇人のうち、七割強の一万一二〇〇人が県内からのものであった。さらに福井市の「現住人口」自体も、郡部が停滞を示すのに対し、増加を続けていた。
 このように福井市では、おもに県内からの転入によって都市化し、大都市ほどに急激ではないが、類似する都市問題が生じていた(『県統計書』)。



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