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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第四節 新しい教育と社会事業
    一 大正自由教育運動
      福井県師範学校附属小学校の実践
 大正自由教育の実践が、全国の師範学校附属小学校や私立小学校を舞台に展開されたことは、周知のことである。千葉県師範学校附属小学校(手塚岸衛)や奈良女子高等師範学校附属小学校(木下竹次)などは有名であるが、福井県師範学校附属小学校においても、広瀬均を中心にしてダルトン・プランの実践が行われた。福井県師範学校が大正自由教育運動に大きな影響をあたえていたことは、明治末から大正初めにかけて、著名な理論家・教員が在籍していたことからうかがえる。藤井利誉・篠原助市・北沢種一・手塚岸衛・三好得恵・五十嵐均平などが在職し、いずれもその後先進的な実践を展開していくのである。
 三国尋常高等小学校において、自発教育の実践を積み重ねていた広瀬均は、大正十一年(一九二二)四月、附属小学校の江頭六郎主事から強い誘いをうけ、二か月後の六月二十八日に、附属小学校訓導の辞令をうけた(広瀬均『自叙伝』)。広瀬が赴任する以前の同校では、すでに八年度ころから「個別取扱」「自学主義」が実践されていた(福井県師範学校附属小学校「沿革略誌」)。広瀬が赴任した翌年の十二年度から、高等科三学年の三学級にダルトン・プランが実践され、国語(松村猛訓導)、算術(筧照志訓導)、地理歴史(広瀬均訓導)の三教科について三人の訓導が協力して取り組んだのである。「沿革略誌」には、教育の根本原理に立脚し、諸教育法の美点長所を採択して、真の児童本位の教授をなすよう努力し、とくに高等科には、ダルトン式の自学施設を実施研究したとあり(大正十二年度)、これ以後「児童本位」という文言がしばらく登場する。「沿革略誌」をみるかぎり、附属小の基本的立場は、ダルトン・プランの実験研究に期待する一方で、当時の自由教育の風潮に一定の慎重な態度をとっていることもうかがわれる。この附属小の自由教育への対応をさらに検討するために、『教育と自治』誌上に掲載された福井県師範訓導の自由教育論(表198)を詳しくみてみたい。

表198 福井県師範学枚附属小学校訓導の自由教育論

表198 福井県師範学枚附属小学校訓導の自由教育論
 ここにあげた三人の見解の共通点は、「新教育」絶賛ではなく「旧教育」にも目を向けた、両者のプラス面の統合にあったといえる。1の武政房吉は、旧教育の短をすて新教育の長をとって、穏健にしてしかも妥当なる教育法をとる必要を強調する。坂本豊も3において、学級教授における個別扱いと一斉扱いという教育方法上の問題に関しては、急進派は一斉扱いを否定するが、学級教授は個別扱いと一斉扱いとの両者を基とすべきことを主張する。この二人の見解で附属小の基本的立場は明らかである。
 もっとも精力的に新教育についての論文を発表した広瀬は、2で、新教育思潮に対し、保守的な態度の人は、教育の真理は旧教育中にのみ存在すると考え、急進的態度の人は、新教育をのみ絶対に教育の真理と考えるのであって、ともに誤った考えであると述べた。4では、全国的に著名な奈良女高師附属小の実践に対して、かなり冷静に批判している。彼は、奈良女高師附属小では、徹底した主観的経験的な態度をとっていることに疑問をもち、もっと広く他人の意見や経験、ことに学者の研究というものを参考とする必要はないだろうかと述べ、奈良で実践している材料選択の自由と進度の自由や個別指導の教育が天才教育、悪く言えば優等児専制の学習になっていないか、と疑問を呈する。以上の考えをさらに発展させながら広瀬は5において、自由教育の方法的原理と学習条件について検討を加え、ダルトン・プランや奈良の実践も批判的に吟味し、ダルトン・プランそのままではない「福師附属式」ダルトン・プランを打ち出している。
 広瀬を中心とした三人の訓導(広瀬・松村・筧)の実践は、十三年十二月に広瀬均『実施経験に拠るダルトン案の批判』として、ダルトン協会叢書の第一巻として発行された。そこでは、ダルトン・プランの核心は、子どもが学習すべき内容を、教師が何日分の仕事としてプラン化した課業表であることが強調され、たとえば地理の「高等一年第七学月学習案」の「チエッコ・スロバキヤ」(三日分の仕事)では、以下のような教師側の指示が出されている。これは今度の欧羅巴の戦争中に新たに独立したので一寸有名な国である。我が国とも関係があったのだから其の住民の歴史をしらべて、独立したわけを研究して見よ。また、其の面積や人口と産業や首府に関しての事柄は暗記しておけ。前に述べたこの国の住民の歴史と独立したわけ、及びこの国と我が国との関係を一斉学習の問題とする。若し時間に余裕のある人はカルヽスバート、アリエン、ビルゼン等の都会、この国が独立前はどこの国に属してゐたかといふこと及び国際河について研究してみよ。参考書としては例の通り地理教材の研究、改造後の世界地理、世界一周、地理教授の革新、高等小学地理参考書、高等小学地理の研究などがよい。
 このように、教師の指示によって学習する内容がすでに決まっており、あとは各自が調べるだけという学習は、本来の自学自習とは異なるダルトン・プランの限界といえる。これについては広瀬は本書のなかで、真の自学自習とは自ら問題を構成し自らこれを解決しその結果を自ら練っていくことであるが、このダルトン案による学習では、その第一の「問題の発見構成」がどうもうまく指導訓練できない、ゆえにこのダルトン案では最初はいくぶん周密な学習案をあたえて学習させてもよいが、漸次、なれるにしたがってこれを略案として補充問題を発見して学習するよう指導し、最後には自ら学習予定案を立て、自ら問題を構成して学習するプロゼクト・メソードまで進展せしめなければならないと主張する。このように、広瀬はダルトン・プランの限界を認識した学習のあり方を模索していた。
写真155 三国尋常高等小学校の地理学習

写真155 三国尋常高等小学校の地理学習

 このように、大正自由教育の実践は、三国尋常高等小学校と福井県師範学校附属小学校に代表されるが、これ以外にも、それぞれの地域で内容ある実践が試みられていた。各学校史や沿革史などによって、自由教育的な実践が行われたと考えられる学校名をあげれば、旭・麻生津・織田・金津・木田・国見・清水西・順化・城崎北・成器西・惜陰・竹田・立待・武生西・武生東・野向・春山・東藤島・宝永・平章・松本・湊・豊・村岡・文殊・社北などがある。



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