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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第四節 新しい教育と社会事業
    一 大正自由教育運動
      三好得恵の自発教育
 ここでは、福井県における大正自由教育の代表的な二つの実践校をみていこう。まず最初に三好得恵による三国尋常高等小学校の実践を取りあげたい。
写真153 三好得恵

写真153 三好得恵

 三好得恵は、今立郡鯖江町上小路(鯖江市)に生まれ、かぞえ五歳の時、丹生郡四ケ浦村(越前町)梅浦の導善寺に預けられ養育された。一時教師をしたが、一九歳の明治三十二年(一八九九)から四年間福井県師範学校で学び、三十六年の卒業と同時に、四ケ浦尋常高等小学校訓導(五年間)に赴任し、福井県師範学校訓導(三年間)、奈良女子高等師範学校訓導(九年間)を経て、大正八年(一九一九)十二月に三国尋常高等小学校長(一四年間)となり、昭和八年(一九三三)九月に同校を退職して、教員生活三十有余年にピリオドをうった(秋田慶行『三好得恵と自発教育』)。
 三好の「自発教育」という考えは、彼のそれまでの実践から生み出された独創的プランであり、主著『自発教育案と其の実現』(大正十三年)に詳しいが、パーカーストのダルトン・プランとの類似性ゆえに、注目された。寺で養育された関係で浄土真宗の思想が三好の思想基盤にあり、そのうえに新しい教育思想が結合されたといえる。
 三好が赴任する大正八年十二月以前の三国尋常高等小学校は、大正の初期から全国の自由教育の動向に目を向けていたようである。つまり、教材研究会や教授法研究会を精力的に行い、三年から五年の間に、前者は年約四〇回、後者は年約二〇回に及んでいた。そして、三年度の学事状況の記録には、教授面においては、本位を児童におき、各科教材と教授法との研究に奮励して児童の実力養成をはかったとあり、五年度には、「分団教授」を加えたとある。四年二月十六日の日誌では、職員会で「自学輔導」について打合せを行っていたことがわかる(三国南小学校文書)。
 また、二年四月に大野から三国尋常高等小学校に着任し、三好の三国への招聘に尽力することになる広瀬均も、八年九月には、「自学教育」「自学教授法」について研究発表を行っていた。児童中心主義の教育実践に傾倒していた広瀬は、自らが福井師範生時代に附属小訓導であった三好を迎え入れるために、奈良女子高等師範学校附属小主事の木下竹次(勝山市出身、福井師範学校の先輩)にも面会して承諾をえ、「三国の校長としてはこの先生以外には無い」と確信して三好を呼び寄せたのであった(広瀬均『自叙伝』)。



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