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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第四節 新しい教育と社会事業
    一 大正自由教育運動
      教育の普及と拡大
 大正期に入り、初等教育や中等教育の就学者数が増大し、学事の普及も進んでいった。まず第一に、初等教育では高等小学校の普及と充実があげられる。学校数では、尋常高等小学校が大正七年(一九一八)に尋常小学校を追い抜き、初等教育の中心となっていく(第二章第三節一図27)。
 第二に中等教育では、十一年四月に三国中学校が開校し(一〇年告示第三六三号)、県下の中学校は六校となった。高等女学校は、大正期半ばから、各地の町立・郡立の実科高等女学校があいついで高等女学校に組織変更され、郡制の廃止を機に十二年に大野・武生・小浜の高等女学校と三国実業女学校が県立に移管され(告示第五八、九二号)、十五年に敦賀高等女学校が県立に移管(告示第七七号)、三国が高等女学校に組織変更された(告示第九九号)。こうして十五年四月には、県下で八校(県立六、町立一、私立一)となった。
 図47でみるように、中学校・甲種実業学校・高等女学校などの中等教育への進学要求は、第一次世界大戦以降、さらに増大し、とくに高等女学校の増設とともに、女子の中等学校への就学が急速に増加した。入学倍率が高く、受験準備教育の弊害も問題になっていた。
図47 中等学校生徒数(明治30〜昭和17年)

図47 中等学校生徒数(明治30〜昭和17年)

 第三に教員養成を担った福井県師範学校では、本多忠綱校長が明治四十年二月から大正八年十二月までの一三年間勤め、師範教育の充実をはかった。教員数・生徒数には増減がみられるが、十二年から生徒数の増加が著しく、教員数も増加していた。
 第四に高等教育では、十三年から文部省直轄の官立学校である福井高等工業学校が開設され、機械科・建築科とともに、繊維工業科がおかれ、福井県における工業分野の本格的な研究が始まった。
 第五に市町村の財政状況をみると、前述の臨時教育会議の答申にもとづいて成立した「市町村義務教育費国庫負担法」によって、小学校教員の俸給費の財源として、市町村の教員数と就学児童数に比例して国庫補助金が配分されるようになった。これによって、もっぱら市町村の負担とされてきた義務教育費に対して、七年から国庫補助が、前年の一三〇六円から約一三万円に飛躍的に増大した。しかし、第一次世界大戦下の急速な物価上昇によって、福井県では、この国庫補助の教員俸給に占める割合は、二割(七年)から一割(九〜十一年)に落ち込んだ。同法は十二年の改正によって、国庫負担総額が四倍に増額されたため、福井県では、教員俸給に占める割合は、三割を超え、昭和期に入ると五〜六割を占めるようになる(図48)。
図48 市町村歳出に占める教育費(大正1〜昭和12年)

図48 市町村歳出に占める教育費(大正1〜昭和12年)




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