目次へ 前ページへ 次ページへ


 第四章 大正デモクラシーと県民
   第四節 新しい教育と社会事業
    一 大正自由教育運動
      教育政策の動向
 教育の分野では、明治三十年代ころから従来の定型化された教師主導のヘルバルト教授法や国家主義教育のあり方に批判の眼を向け、子ども主体の教育のあり方が提起され、大正期に入り全国的に高揚していった。それを大正自由教育運動または大正新教育運動という。
 政府は第一次世界大戦後の国家の方向を見定め、教育の役割を新たな段階で再編成するために、内閣直属の諮問機関である「臨時教育会議」を大正六年(一九一七)九月に設置した。この会議は八年三月までに、初等・中等・高等教育をはじめとする教育全般にわたる九つの諮問に対する答申を出し、その他二つの建議を行った。初等教育に関する第二回答申(六年十二月)では、1小学校教育では道徳教育の徹底を期待し、児童の道徳的信念を強固にし、帝国臣民としての根本を養うこと、2児童身体の健全な発達を意図して、いっそう適切な方法を講ずること、3児童の理解と応用とを主とし、不必要な記憶のために児童の心力を徒費する弊風を矯正すること、4諸般の施設や教育の方法は、画一の弊に陥ることなく地方の実情に適切ならしむること、の四点が指摘されていた(海後宗臣編『臨時教育会議の研究』)。
 ここでは、道徳教育の徹底にみられるように教育勅語精神の浸透と、大戦後の国内外の情勢の変化への新たな対応が中心であった。とくに、34での詰込み教育と画一教育に対する批判は、従来の教育のあり方に対する反省と国際社会での帝国日本を担う新たな人材養成の考えを示したものといえる。
 ここにみられる画一的な教育への批判や児童理解の重視は、国家的な立場からの新たな人材養成の理念を掲げ大正自由教育運動のねらいと重なる側面があるが、長野県松本女子師範附属小学校の川井訓導事件(十三年)にも象徴されるように、その国家的な枠からはみ出る自由に対しては、徹底的に取締りが行われた。
 福井県では、佐藤孝三郎知事が、四年三月の郡視学会の講演で、欧米からの新思想に対する警戒を促して、「我が国粋を攪乱し懐疑の念を生せしむる」ことへの懸念と小学校教育の重要性、さらには「社会教育殊に公徳心の養成」の重視を強調していた。また、同知事は二日後の中等学校長会での講演でも、学生の思想問題について懸念を表明し、欧米の哲学や文学、宗教の輸入によって、「頭脳の未だ定まらざる学生が此等を生噛して、古来の国粋たる固有の思想に対し或は懐疑の念を起す嫌なきか、之を思索論議する傾なきか」と述べていた(『福井県教育』一一九)。
 臨時教育会議が設置された翌年の七年六月の郡市長警察署長会議で、川島純幹知事は、県行政の筆頭課題として「本県教育の振興」をあげていた。川島知事は、この三月に公布された「市町村義務教育費国庫負担法」にふれ、小学校教員の待遇改善を歓迎し、教師としての職責を深く自覚し、すすんで徳性の涵養と知識の錬磨をめざすべきことを強調した。また知事は、小学教育の施設を充実し、とくに高等科の改善を強調し、実業補習学校の充実、女子教育の改善、学校衛生の改善についても提言していた(『教育と自治』第一巻第一号)。



目次へ 前ページへ 次ページへ