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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第三節 政党政治の展開
    三 総選挙の実態
      二回の大選挙区
 大正期の総選挙は明治三十三年(一九〇〇)改正法による大選挙区制のもとで第一二、一三回が、大正八年(一九一九)改正法による小選挙区制のもとで第一四、一五回がそれぞれ実施され、ついで昭和期に入り中選挙区制のもと第一六回の最初の普通選挙が行われた。以下それらの総選挙の実態についてみていく。
 四年三月の第一二回総選挙は、政友・非政友の攻防であった。政友会県支部は二月十五日、臨時総会を開き、郡部公認に前代議士三人を決めたが、高島茂平は丹生郡での政友会の地盤確保のため杉田などによる強い要請にもかかわらず出馬を辞退し、結局各郡有権者大会の推せんを受けた大橋松二郎、熊谷五右衛門と嶺南の新人河崎清を候補者とし、大隈内閣への対決姿勢を打ち出した。なお選挙期間中に熊谷が熊坂事件に連座して断念、名村忠治が郡公認で出ることになる。
 他方、非政友は、尾崎行雄の女婿佐々木久二が丹生郡を根拠に中正会より、公友会から大隈後援会の立場で南条郡を根拠に今村七平が出馬した。嶺南では山口嘉七が同志会公認で、また大野郡からは吉田・大野両郡の提携不調の結果、郡推せんで斉藤顕が非政友系中立で出馬した。かくて郡部では政友三・非政友三と相対峙して戦うことになり、政友会では本部特派員として香川輝前知事が来県し、各地を遊説したことが注目された。
 市部では中正会の八田裕二郎と絹業界の代表として公友会寄りの松井文太郎が出馬した。政友会は公認を出さず、八田、松井の二人の激戦となった。結果は表190のとおり政友二・非政友三、得票数は政友一万〇三九〇票・非政友一万一五七九票となり、政友はからくも吉田・坂井・大野・三方郡の残塁を守りえたと評された。また各郡市別の得票も表190にみるごとく各自の地盤でほぼ当選圏にせまる票を獲得したのである。
 六年四月の第一三回は政友会と憲政会との対決であった。解散時には大橋が政友会から憲政会に移り、憲政会四人・政友会一人であり、政友会の党勢挽回が予想されていた。政友会は、吉田・足羽両郡を基盤に柳原九兵衛と池田七郎兵衛が、坂井郡は名村忠治と熊谷五右衛門の交代、嶺南は河崎清と準政友の横井藤四郎が予想され、憲政会では池田・柳原に対して大橋が、丹南三郡を基盤に今村が、嶺南では山口が予想されていた。また、このほかに大野郡からは新人猪野毛利栄が出馬し、これに対し大野・丹生両郡の県会議員が県治上両郡の利害一致を理由に、それぞれ革新・公友両会を脱会して中立団体を作り竹尾茂を推していた。なお、坂井郡での名村、熊谷の交代は紛糾したが、結局、郡の「元老」たちの全郡一致の要請で熊谷に決まったが、以後郡内に大きなしこりを残すことになった。この全郡一致という立場は丹生郡などにもみられた。最終的に、政友会の柳原、熊谷、準政友の横井、憲政の今村、大橋、山口、ほかに中立の竹尾、猪野毛の八人に絞られた(資11 一―一八八〜一九八)。
 市部においては政友会が念願の一人を得べく支部幹部の鷲田土三郎を立て、これに対し絹業界より再び松井が挑戦することになった。選挙の結果は政友会二、準政友一、吏党的無所属一、憲政会一となり与党政友会の勝利に終わった(表190)。吏党系候補としての横井に対する川島純幹知事の援護は当時有名であり、彼と松井は選挙後寺内内閣の庇護のもとに当選した人びとにより作られた「維新会」に所属した。また表190にみるごとく各候補の郡市別得票数は、前回と同様に各候補の地盤割が鮮明にうかがわれた。なお、竹尾が大野郡で新人の猪野毛に侵蝕され、彼の郡内での政治力減退が大きく報じられた。



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