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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第三節 政党政治の展開
    二 政党・政派の変遷
      第一回の普選
 予定された昭和二年(一九二七)九月の県会議員選挙は、普選制のもとで行われることになり、有権者は前回の七万弱から一二万五〇〇〇弱とほぼ倍増し、新有権者の動向が注目された。四七人が立候補したが、政友会・民政党の二陣営の対決に関心がもたれるとともに、新人が二六人と多く、また労農党からの二人の立候補が注目された。
 選挙は七九・九パーセントの投票率で、その結果は表191のように政友会一九人、民政党七人、実業同志会一人、無所属三人が当選し、新人一八人・前議員九人・元議員三人となった。また無競争の三郡を除いた有効投票数七万九三八五のうち、政友会が民政党の二倍強を獲得し与党の力を示した。また、労農党は丹生・南条二郡から立候補した二人の健闘が目立った。しかも一般の候補が従来と同様にその居住町村を最大の選挙地盤として戦ったのに対し、彼らが郡内の各町村でほぼ万遍なく得票したことが注目を引いた(表193)。

表193 県会議員選挙郡市別得票数(昭和2年9月)

表193 県会議員選挙郡市別得票数(昭和2年9月)
 さて、与党の力を発揮し一九人の多数を得た県会政友派は総選挙への同党の動向を背景に再び内部の紛糾を生じる。それは池田の県会復帰による池田派対支部幹部派との対立であり、具体的には議長選での池田七郎兵衛と熊谷三太郎との攻防であった。結果は池田が議長に嶺南の福井が副議長に選出されたが、以後県支部内に亀裂を残すことになった(資11 二―二五五)。
 県政界は総選挙に向けて蠢動しはじめる。すでに各党および候補予定者は、普選の実施による新有権者の動向に配慮を巡らすとともに全県一区となった中選挙区のもとでの各自の地盤をいかに確保しまた増殖するかに腐心していた(資11 一―二四八)。
 二年十二月召集の第五四議会において翌三年一月、民政党により内閣不信任案が上程され、衆議院は解散された。二月二十日、わが国最初の普選となる第一六回総選挙が挙行されることになった。有権者数は前回のほぼ四倍となり、政友会と民政党の二大政党の対決および無産政党の進出をかけての選挙戦となった。選挙の結果は、政友会二一七(一九〇)、民政党二一六(二一九)、実業同志会四(八)、無産政党八(社会民衆党四・日本労農党一・労働農民党二・民憲党一)、無所属一八(四二)となり、福井県では政友会二・民政党二・実業同志会一となった。政民両党の議席差はわずかに一という緊迫した状況となり、八議席にとどまったものの各地における無産政党の進出は、政府に深甚な恐怖を抱かせた。政府は総選挙終了後、共産党員の大検挙(三・一五事件)、労農党の解散措置を強行し、さらに緊急勅令で治安維持法に死刑無期刑を追加する改悪、特高警察の措置と矢つぎ早に熾烈な思想弾圧の布陣をしくことになる。
 総選挙後、予定どおり松井文太郎が民政党に移り、また六月の同支部総会で規約を改正し支部長を置き、熊谷五右衛門支部長・窪田彦左衛門幹事長の体制を固め、また田保仁左衛門、武長弥栄造が入党し、県会議員数は九人になった。しかし、中央での床次の脱党、新党樹立の動きは県政界に影響をあたえ、旧本党系の熊谷・窪田の両主脳と吉村一が新党倶楽部に移り、民政系県会議員は八月の補欠選挙で一人を加え、九月政友へ一人が移動、一応この段階で政友二一人・民政七人・新党二人となった。そして九月支部評議会で谷口支部長田保幹事長と陣容を整えたが、支部内の融和統制に関して常に不安を残すことになる。
 他方、政友会支部では広部より加藤勝康へと幹事長の交代をみたが、県会池田派と支部幹部派の確執は続き、十一月県会を前に役員人事および各郡の利害対立から再び県会政友勢力は分裂する。すなわち池田派(昭和倶楽部)から不平組五人が熊谷と盟約して脱会、民政党・新党の八人と反池田派を作り、両派同数の勢力分布となって、以後議員争奪がくり返され、政友会は池田派、熊谷派に、民政党は市部派、郡部派に分れて県会は紛糾を重ねることになった。県会終了時の勢力分布は政友会二一人(うち池田派一五・熊谷派六)、民政党六人(市部派一・郡部派五)新党二人、中立一人とになり、池田派と民政党郡部派が昭和倶楽部、民政党市部派一人を除く残り九人が反昭和倶楽部という構図となった(表191)。かくて昭和三年は終わり県政界の権力闘争は以後続けられることになり、民衆の政治不信感を高めることになった(資11 一―二五七)。
 ともあれ、大正期は民衆の台頭をみ、民衆の声を背負って政党勢力が政治を左右する時代を現出し、政党内閣制の実現をみることになった。しかし政党は民衆の真の要望を汲み上げることよりも、彼らの勢力闘争および利権争奪に明け暮れる状態を続けた。そして民衆は彼らの進み行く前途に大きな破局が待ち受けていることを、まだ知らされていなかった。こうしたなか、四年三月、福井県の生んだ議会政治家杉田定一はその七九歳の生涯を閉じたのである。



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