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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第三節 政党政治の展開
    二 政党・政派の変遷
      民政党県支部の成立
 大正が昭和に改元されてほどなく昭和二年(一九二七)一月、三党首会談で諒闇中を理由に解散が回避された。背後には政本合同、政憲連盟といった次期政権をめぐる三党の思惑がうずまいていた。しかし、四月に枢密院の反発により金融恐慌の処理につまずいた若槻憲政会内閣が総辞職し、田中政友会内閣が誕生する。そして同内閣は三週間のモラトリアムを実施し、経済的危機を切り抜けたのである。こうしたなか、かねてよりの憲本連盟による新党結成が進められていた。
 この新党結成をめぐって県政界はしばらく迷走することになる。それは県内の政友本党の去就であった。五月一日、杉田は政友会復帰声明書を出して本党を去る。杉田の行動については毀褒両面の評価がなされるとともに県政界に種々の影響を生むことになった(資11 一―二二四、二二五、二二八、二四九)。「政友か反政友か新党組織を控えて県下各代議士連の去就入りくんだ対個人関係」と報道されたように、憲政の三人と本党の熊谷は新党(立憲民政党)に移り、政友会は山本と昨年入党した猪野毛利栄の二人となった(『大阪朝日新聞』昭2・5・14)。また県会分野では政友本党の一五人のうち坂井郡の四人が杉田に従って政友会に復し一六人となり、新党へは政友本党の八人と憲政会二人の一〇人が参加した(表191)。
 六月一日、正式に新党結成がなり「立憲民政党」と称することになる。県支部発会式は、七月九日に福井市加賀屋座で床次顧問・町田忠治総務を招き挙行された。三田村甚三郎座長の指名により、総務に土生彰・谷口宇右衛門・熊谷五右衛門・山口嘉七の四代議士、幹事長に窪田彦左衛門、相談役に森広三郎・三田村甚三郎・今村七平・福島文右衛門・野尻弥重郎・添田敬一郎の六人の役員が決定し、党員三〇〇〇人を集めたと報じられた。午後には演説会が催され、来るべき県会議員選挙を前に党勢を誇示した(『大阪朝日新聞』昭2・7・10)。
 なお、これよりさき、六月十八、十九日に武生町で日本農民組合福井県第一回大会と労働農民党福井県支部連合会の創立大会が行われ、県会議員選挙への立候補が協議された。無産政党も県会議員選挙を契機に党勢の拡大を所期していた(資11 一―二九五)。
 一方、やや後れて八月十六日、政友会県支部は民政党支部発会式に対抗すべく、市内福井劇場で総会を開催した。一五〇〇人の来会があり、七月に南満州鉄道の社長に就任した山本条太郎の支部長留任を認めるとともに、宣言と決議を可決した。乙号の決議には一、越美北線の速成を期す 一、米原福井間複線工事並に同区間の電化を期す 一、敦賀臨港鉄道速成を期す 一、竹田川改修工事の実現を期すとあった(『大阪朝日新聞』昭2・8・17)。



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