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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第三節 政党政治の展開
    二 政党・政派の変遷
      第二次護憲運動から昭和へ
 第二次山本内閣は、大正十二年(一九二三)十二月の虎の門事件のため退陣した。元老は中間内閣を志向し、清浦奎吾を奏薦、彼は研究会を基礎に貴族院内閣を組閣した。二代の中間内閣に続く貴族院内閣の出現は人びとを驚かせ、また各党にとっても大きな衝撃であった。政友会はこれまで鬱積してきた内部対立が一気に噴出し、内閣支持派と不支持派の真っ二つに分裂し、支持派は脱党して「政友本党」を組織した。そして、政友会と憲政会・革新倶楽部は、このような特権内閣の出現は憲政の逆転であるとして内閣との対決姿勢を強め、ここにいわゆる第二次護憲運動が起こった。
 第四八議会の冒頭の一月末に衆議院は解散され、五月に第一五回総選挙が行われることになった。政友会の分裂と衆議院の解散は県政界にも大きな波紋を生じさせた。杉田はこの機に政友本党に加盟し、県選出の政友会所属代議士は、山本条太郎を除いて政友本党に加わった。また、県会では池田派の河合甚三郎・福田登・広部徳寿らの少数が政友会に残り、県会で多数派を形成していた窪田彦左衛門らが政友本党入りをした。かくて二月下旬の段階で県会の政党地図はひとまず本党一八人、政友一二人となった(表191)(小泉教太郎家文書)。
 二月十九日、政友本党は支部創立総会を開き、野村勘左衛門を支部長に選んだ(資11 一―二〇一)。一方、政友会支部でも総会を開き山本が支部長となった(『大阪朝日新聞』大13・2・23)。なおまた、四月十日時点で入党申込者七〇〇人に達すと報じられた実業同志会の福井支部発会式が四月十八日に行われ、支部長に松井文太郎が推された。憲政会支部も四月二十日、加藤高明総裁の来県を機に総会を開いた。かくて県政界は、政友会・政友本党・憲政会の三派が鼎立し「その間に実業同志会が福井市・武生町らに割込み憲政派と握手して競争」するといった構図が生まれたのである(『大阪朝日新聞』大13・4・11、15、19)。
 五月の総選挙の結果は憲政会一五二(一〇三)、政友本党一一一(一四九)、政友会一〇二(一二九)、革新倶楽部三〇(四三)、無所属小会派六九(三七)となり、護憲三派の勝利に終わった。県においても憲政二人・政本二人・政友一人・無所属一人と護憲三派が多数となった。
 総選挙後清浦が退陣し、加藤高明を首班とする護憲三派内閣が成立する。県政界では内閣成立後、県会政本派に動揺の兆しがみられ、また政本臭のあった福永尊介知事が更迭され、党派的には無色の豊田勝蔵知事が赴任してきた。由来大正期の知事は政権交代とともに更迭が行われ、県においても第二次大隈内閣期の佐藤孝三郎の同志会系と第二次加藤内閣期の市村慶三の中立系を除けば香川輝・川島純幹・湯地幸平・白男川譲介と歴代政友会系であった。
 県会での多数派であった政本派は、総選挙後に野村が支部長を辞任し、野党の立場での現状保持が憂慮されていた。一方、政友派では九月十日の支部幹事会で広部が幹事長に推され、山本・広部体制ができるとともに、彼らは「県治倶楽部」を名乗り県会多数派をめざして政本、憲政派に働きかけることになり、激しい県会議員争奪戦が始まったのである。まず十一月に嶺南の六議員が「政本党六人組」を名乗り、県治上中立を標榜した。さらに県会議員争奪戦は激列をきわめ、嶺南議員も分裂し、県会閉会時には県治倶楽部一六(政友一〇、憲政一、中立一、嶺南組四)、政友本党一四(政本一二、嶺南組二)となり、なおまた同月末には、県治倶楽部に坂井郡の議員が加わった「甲子倶楽部」が広部の主導下に県会議員二〇人で結成された(表191)。政本派は凋落し少数派となったのであるが、甲子倶楽部の結成もまた役員人事その他をめぐる県会多数派工作の結果でありその結束は必ずしも強固なものではなかった(資11 一―二〇三、『大阪朝日新聞』大13・8・1、19、21、9・9、11、11・13、26、28、29)。そして十三年十二月二十六日は選挙違反事件にかかわる広部、松山、福田の三議員の議員失格が確定した(『大阪朝日新聞』大13・12・27)。
 県政界はこれら失格議員の補選後、波乱含みで十一月の通常県会を迎え、窪田議長および政本党の画策により多数派甲子倶楽部の切崩しが行われる。それは役員人事への葛藤ならびに倶楽部内の丹南勢力と他勢力との確執および河合と広部との主導権争い、さらに坂井郡派の広部への反目などが重なって、河合が脱会して中立を宣し、ついで政本党に属する坂井郡の五人と嶺南の四人が、さらに大野の政友派松田・石川が脱会、窪田派と合体、窪田幹事長のもとに県友会を組織、多数派を構築した。彼らは県政を研讃考究し、県民の福利増進を目的とし県政上意見を同じくする県会議員をもって組織すると称した。今その勢力分野をみると表191のごとく県友一八(うち政本一六、政友二)甲子一〇(うち政友九、憲政一)中立二(うち内政友一、準憲政一)である(『大阪朝日新聞』大14・11・15、17)。県会の分野はその後も甲子、県友両派の役員人事をからめた議員争奪が展開され、党派会派の入り組んだ離合集散が続けられたのである。
 なお、十四年六月一日には県下の製材、仲仕、紡績などの労働者を組織した「福井県労働同志会」の発会式が行われ、斉木重一を会長に県下労働界に新機軸を画したことが注目された(資11 一―三四七)。
 十五年に入り昨年の補選で山口を当選させた憲政会は県下各地に党勢拡張を期し、他方政本合同憲本提携の動きが徐々に進められつつあった。また政友会県支部は九月十五日総会を福井市で開催、政府攻撃の宣言および決議を可決するとともに、山本支部長を再選した(『大阪朝日新聞』大15・9・16)。そして後日山本により広部幹事長が再任された(資11 二―二三六)。県下政界もようやく動き始めていたのである。
 さて、護憲三派内閣の成立は以後の政党内閣時代の幕開けとなったのであるが、世上一般には経済上社会上の不安が横溢していた。第五〇議会で可決された治安維持法は十四年四月に、普通選挙法は五月に公布された。普選法は納税要件を撤廃し、二五歳以上の成人男子すべてに選挙権をあたえるとともに、定数を三〜五人とする中選挙区制を採用した。福井県では全県一区、定員五人となり、小選挙区制時と比べ一人減となった。中選挙区制の採用は、当時の政党勢力の分布状況が影響したと考えられる。
 政局は、十四年四月、高橋政友会総裁が引退して後任総裁には田中義一が就任し、五月には革新倶楽部と中正会が政友会に合同、犬養が政界引退を表明した。七月には税制整理案にまつわる地租移譲問題で護憲三派内閣が潰れ、加藤単独内閣が成立した。翌十五年一月、加藤高明が死去し、若槻礼次郎が憲政会総裁となり、若槻内閣が誕生、そして、この時期疑獄事件をはじめとする不祥事件が次々と発生し、政党不信の世論が高まっていた。一方、十五年三月、労働農民党の結成、同年十月日本農民党結成、十二月日本共産党再建、同月社会民衆党、日本労農党結成など無産政党の戦列も整えられていた。そして十二月二十五日、大正天皇崩御、第一次世界大戦後の戦後恐慌、ついで関東大震災以来の慢性的不況、さらに金融恐慌、世界恐慌でもって昭和の幕は開かれたのであり、そこには政局に対する明暗二つの懸念が漂っていたのである。



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