目次へ 前ページへ 次ページへ


 第四章 大正デモクラシーと県民
   第三節 政党政治の展開
    二 政党・政派の変遷
      立憲青年党
 なお、『福井新聞』(大9・5・15)は普選賛成派は全体としては敗北したものの、市部では普選賛成票のほうが多く、知識人層が普選を支持したことを論じたが、当時福井県においても選挙期間中の四月、朝日新聞通信部主催の普選促進大演説会が敦賀・福井・武生の各地で開催され、県民の普選熱もようやく高まりつつあった。
 こうした気運のなか既成政党の革新と普選を標榜する青年層による「福井立憲青年党」が結成され、それと前後して県下各地に同党の誕生をみることになった。大正九年(一九二〇)九月九日、立憲青年党運動の創始者永井柳太郎を迎え、福井市で結党式を挙行した。決議された綱領には、政界の革新や選挙権拡張による立憲政治の実現とともに、「自治改善を図り大福井の建設」が掲げられていた(『大阪朝日新聞』大9・8・21、9・10)。
 当時『福井新聞』は「青年党に望む」などと題して、立憲青年党の台頭とその活躍を支持し、政界の刷新と完全なる普選の実現のための彼らへの期待をくり返し論じた(『福井新聞』大10・1・21、5・18、19)。時代閉塞を打開すべく青年の台頭を期待する声はようやく高まっており、既成政党の一部にもその弊習からの脱皮を青年層に賭けるものがあった。立憲青年党の動きはその意味で憲政会の別動隊的性格を担っていたとも考えられ、そのことは政友派においてもやや後れて十年十一月に「福井立憲中正会」なる青年組織を発足させたことにもうかがわれた。また同年二月には県会議員の土生彰と福井立憲青年党が共同して、「朝鮮人へ参政権を付与の請願」(資11 一―七)を貴族院と衆議院へ提出していたことも注目される。
 この間政局は、政党間の泥試合的な様相や原内閣の強引な政治手法に対し政治道義の退廃が喧伝されており、ついに原首相に対する刺殺事件を生むにいたった。ついで高橋是清が組閣したが同内閣も改造問題で内紛を生じ退陣し、以後加藤友三郎内閣、第二次山本内閣と続いた。その間政友会は与党の立場を維持し、憲政党はいわゆる苦節一〇年を強いられ、さらに国民党は十一年九月に解党し、新しく「革新倶楽部」を組織し、また十二年四月には武藤山治により「実業同志会」が結成された。そしてこの間、野党の数次にわたる普選案の提出も普選尚早論をとる与党政友会により否決され、しばらくは日の目をみることができなかったのである。
 さて、県政界では第一四回総選挙の結果政友会は所属代議士五人を得た。しかし、そのなかの野村は坂井郡の旧政友系勢力を背景に従来県支部の主導権を掌握してきた池田と対立することになる。かくて池田は山本を擁して池田派(新派)を再構築し、野村は旧政友系の川崎・柳原の二人および高島を抱えて野村派(旧派)を形成することになる。これまでの新旧両派の対立は形を変えて新しい対立構図を生むにいたった(『大阪朝日新聞』大9・5・16)。さらにこの対立は十年十一月の県会議長問題をめぐり、政友派二三人は義江派(旧派)一〇、池田派(新派)一三に分裂、義江派は公友会六人と提携し義江議長を実現せしめた。そしてこの一六人は新たに一八会なる団体を組織した(表191)(『大阪朝日新聞』大10・11・20)。なお、政友会県支部は十年十二月九日総会を開き、従来の幹事制度を改め支部長を置くこととし、高島茂平が支部長になった(『大阪朝日新聞』大10・12・11)。かくて政友派二四(うち純政友としての坂井郡派と義江派を継受した窪田派の旧派と大野・嶺南組を擁した池田派の新派の対抗)と公友会六といった情勢のもとに十二年九月の県議選を迎えることになった。
 なお、これよりさき九年末からの第四四議会で原内閣は、市制、町村制の改正案を成立させ、市町村議員選挙資格を緩和し、町村の等級選挙を廃止し、市は二級制に改めた。また郡制廃止案も成立させた。ついで第四五議会では府県制の改正が行われ、府県会議員の選挙資格者を税額を問わず直接国税を納める者とし、有権者数はほぼ倍増した。
 十二年九月の県会議員選挙は、明春の総選挙の前硝戦として注目された。しかし積年の運動費の増加は候補者難を生じ、また候補者の政党色も政党本部の意に反してかなり曖昧であった。そうしたなか各党各派による新人の発掘が行われ、四五人の立候補があった。選挙では前八人・元一人・新二一人が当選し、党派別では政友会二七人、憲政会一人、中立二人と再び政友会の勝利に終わった。しかも選挙後中立の二人が政友会に入り、政友会は二九人と県会勢力を独占することになった(表191)。
 なお、大野郡二区の選挙違反事件に落選した池田と広部の両人が係累したことは以後の県政界に問題を残すことになった。かくて選挙後役員人事その他をめぐって政友派内部の分派抗争が劇しさをますことになる。それは池田派、窪田派、坂井郡一丸派といわれた三派の攻防であり、ほぼ表191にみるごとき陣容であった。かつての池田派に代って窪田派の抬頭がうかがわれ、新しい紛糾が予見された。第二次山本内閣のもと野党に下った政友会の前途と同様に全盛を誇った県政界における政友会の前途にも波瀾が待ちうけていたのである。



目次へ 前ページへ 次ページへ