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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第三節 政党政治の展開
    二 政党・政派の変遷
      政友会全盛時代
 大正八年(一九一九)秋に県会議員選挙が予定されるなかに、四月二十一日、金沢市で盛会裡に北信八州会が、ついで二十二日、政友会福井県支部総会が開かれ、いっそうの党勢拡張が期せられた。福井市加賀屋座で開かれた総会では、九〇〇余人の来会者のもと、一、本県高等教育機関の達成を期すること、一、三国築港速成を期すること、一、濃越鉄道の速成を期すること、一、南北両川の改修を期することが決議された。また、七月には加藤憲政会総裁一行の石川・富山両県への来遊があり、十七日に金沢市で憲政会北陸大会が挙行された。このように選挙をにらんだ両党の動きは活発化していた(『大阪朝日新聞』大8・4・25、7・18、20)。
 さて、県政革新会は、池田七郎兵衛が主導権を握り漸次政友会色を濃厚にしていたが、政友会内閣成立後は旗色をより鮮明にしていた。八月十六日、政友派は福井市に支部幹事会と県政革新会の総会を開き、憲政派も十八日に福井市に幹部が集まり、それぞれ選挙対策を協議した。政友派は現職再選に重点をおき、非政友派は有力候補者の発掘による現在の劣勢挽回を企図していた。
 新聞は選挙日を数日後にした段階で、政友会内閣の下に行はるる選挙なるが故に、政友会にあらざるものも強て政友会に入党して政友会を標榜し、然らざるものも多くは中立を標榜し、憲政会を標榜するを嫌ふ傾向あり、よつて此際憲政会を標するものは、地盤比較的強固にして人望あり、当選は確実なるに反し、政友会を標榜するもののうちには、政友会の地盤擁護の為めに所謂犠牲候補たる者尠からずと報じ(『大阪朝日』大8・9・16)、また、候補者の党派別を政友二一人(うち公認一九人)、憲政九人、準憲政二人、中立九人計四一人と報じた。選挙結果は表191のとおり政友派が一六人を得て勝利を博し、憲政派は七人にとどまった。そして、今回もその選挙の実態はおおむね郡市の有志会、有権者大会で候補者が銓衡され、候補者は郡の推せんを受け、さらに党の公認を得て、出身町村の票をほぼ独占して当選していることが知られる。ただ今回坂井郡において広部が有力者の銓衡にもれ、郡非推せん政友会非公認で出馬、「弊風打破宣言書」を有権者に配布して当選したことが注目され、また福井市で絹業団・医師団の積極的な選挙参加が注目された。

表191 県会議員名列(大正8〜昭和3年)

表191 県会議員名列(大正8〜昭和3年)
 このようにして選挙後大野郡の三人が加わった一九人の政友派は、県会内で県政革新会を改め、「政友倶楽部」を称することになった。しかし、全盛を誇った県会内池田派も役員人事をめぐって、池田派(新人少壮派)、非池田派(旧自由党系)の新旧対立を生じ、以後種々の確執をくり返すことになる。
 これよりさき、大戦終結後の世界思潮の大勢のなか普通選挙を要求する世論が高まり、それは民衆運動の様相を帯びるにいたった。こうした状況のもと、原内閣が提出した選挙法改正法案は第四一議会で可決され、八年五月に公布された。それは選挙人の納税要件を従来の一〇円から三円に下げ、有権者を倍増させるとともに、政友会の宿願であった多数代表法としての小選挙区制を採用したものであった。すなわち、定員四六四人を二九五の一人区、六八の二人区、一一の三人区の計三七四区より選ぶものであり、しかも区割りや配当議員数に関し政友会の政治的配慮を反映した恣意的な面が強く指摘されていた。
 福井県においては、第一区福井市で定員一人、第二区足羽・吉田・大野・今立四郡で定員二人、第三区坂井郡で定員一人、第四区丹生・南条二郡で定員一人、第五区嶺南四郡で定員一人と一人増の定員六人となり、有権者は総選挙時に四万一五一九人とほぼ前回の二倍となった。坂井郡の独立と丹南三郡の分割には、明らかに政友会の政治的配慮がうかがわれた。
 さて、憲政・国民両党は世論を背景にして普選を政治綱領に掲げ、第四二議会にはそれぞれが普選法案を提出した。そしてこの法案の討議中、九年二月末に突如として内閣は衆議院を解散し、五月の第一四回総選挙が改正選挙法のもと普選の可否を争点として戦われた。結果は予想されたように政友会二七八(一六三)、憲政会一一〇(一一八)、国民党二九(三一)、無所属四七(六八)と政友会の大勝で終わった。福井県でも政友五・憲政一となり、また得票数でも政友三万〇〇四六、憲政四七五〇と憲政会の惨敗に終わった(表192)。

表192 第14・15回衆議院議員選挙結果

表192 第14・15回衆議院議員選挙結果



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